入れ歯を調整しても、患者の咀嚼効率は天然歯の20%しか回復していません。
咀嚼効率(masticatory efficiency)とは、健全歯列者が同じ程度に食物を粉砕するために必要とする平均的な咀嚼回数と、被験者が必要とした咀嚼回数の比を百分率で表した指標です。簡単に言えば、「健常者を100%としたとき、自分はどれくらい効率よく噛めているか」を示します。
ただし、臨床や論文では似た言葉がいくつも登場するため、混乱が生じやすいです。整理が必要ですね。
日本補綴歯科学会のガイドラインでは以下のように区別されています。
| 用語 | 英語表記 | 意味のポイント |
|---|---|---|
| 咀嚼効率 | masticatory efficiency | 健全歯列者との咀嚼回数の比(百分率) |
| 咀嚼能率 | masticatory efficiency | 規格化された条件で到達できる食物粉砕度の測定値 |
| 咀嚼値 | masticatory performance | 10メッシュの篩を通過した量のパーセント |
| 咀嚼能力 | ability of mastication | 捕食から嚥下閾に至るまでの全体的な能力 |
これらは英語では同じ "masticatory efficiency" や "masticatory performance" と表記されることが多く、文脈によって意味が変わります。つまり用語と文脈をセットで読むことが原則です。
広義の咀嚼能力は、食物の口腔内への取り込み・表面積の増加(粉砕)・内容物の抽出・唾液との混和・食塊形成という一連の過程をすべて含みます。歯科臨床においては、この全体的な能力のうち「粉砕・混和能力」に着目した指標として咀嚼効率が使われることが多いです。
患者向けの説明でも「どれくらい効率よく噛めているか」という言葉で伝えられるため、患者の理解を得やすいという点でも使い勝手のよい概念です。これは使えそうです。
参考:日本補綴歯科学会「咀嚼障害評価法のガイドライン(主として咀嚼能力検査法)」では、類似用語の定義が詳細に整理されています。
咀嚼効率を客観的に評価する代表的な方法は、大きく分けて「篩分法(しぶんほう)」と「グミゼリーを用いたグルコース溶出量法」の2つです。測定法によって得られる情報が異なります。
篩分法は、1950年にManlyらが確立した方法で、今もゴールドスタンダードとして参照されます。ピーナッツ3gを20回咀嚼させ、10メッシュの篩で粉砕粒子を分けて通過量のパーセントを算出します(Manly法)。日本では石原法(生米2g・30回咀嚼)も使われており、咀嚼試料・咀嚼回数・篩の目の大きさを一定にそろえることが精度の条件です。ただし、手技が煩雑で時間がかかることが課題でした。厳しいところですね。
グミゼリー法は、グルコース含有グミを20秒間咀嚼させた後、10mLの水とともに吐出させ、ろ液に含まれるグルコース溶出量を測定する方法です。現在、保険算定で使われているのはこの方法です。検査装置(グルコセンサー)を使えば約6秒で数値が得られ、臨床で運用しやすい点が大きなメリットになります。
検査手順は次の通りです。
なお、篩分法の咀嚼値(健常者の95%信頼区間)はピーナッツ使用で77.77〜81.65%、生米使用で10メッシュ咀嚼能率88.0〜109.6%とされています(正常歯列者74名のデータ)。グミゼリー法での健常者の平均グルコース溶出量は7.21mg/dL(SD:1.18)です。これが臨床判断の基準値として用いられています。
それぞれの方法には長所と短所があります。
| 方法 | メリット | デメリット |
|---|---|---|
| 篩分法 | 客観性・再現性が高い | 手技が煩雑・時間がかかる |
| グミゼリー法 | 約6秒で結果が出る・保険算定可能 | 粉砕・混和能力を複合的に評価するため単純比較が難しい |
どちらの方法を選ぶかは、検査の目的(研究か臨床か)と患者の状態に合わせて判断することが基本です。
参考:グミゼリー法を用いた保険算定と検査手順の詳細はこちらで確認できます。
株式会社ジーシー|口腔機能低下症の診断・保険算定・検査・訓練方法
2018年(平成30年)の診療報酬改定により、咀嚼能力検査(D011-2)が保険収載されました。保険点数は1回につき140点、算定は6か月に1回まで認められています。
保険適用で咀嚼機能検査を算定できる条件は以下の通りです。
これらの条件を満たさない患者への実施は、自由診療となります。そのため、一般的な補綴処置後の患者や口腔機能低下症が疑われる中等度の歯周病患者には算定できないケースも多く、注意が必要です。
口腔機能低下症の診断フローとの関係も重要です。口腔機能低下症(2018年保険収載)の7つの評価項目のうち「⑥咀嚼機能低下」の判定にはグミゼリーを用いた咀嚼能力検査が推奨されており、スコアが特定の基準値を下回ると「咀嚼機能低下あり」と診断されます。この結果は口腔機能管理料の算定にも連動します。つまり算定ルートの把握が収益にも直結するということです。
6か月に1回という算定制限は「頻回な検査は認められない」という規定から来ており、義歯の新製や修理・調整後の効果判定として行うことが多いです。治療前後の数値の変化を記録として残しておくことで、患者への説明責任を果たしやすくなるという副次的なメリットもあります。
参考:診療報酬点数表における咀嚼能力検査の詳細はこちらで確認できます。
治療の選択肢を患者に説明するうえで、補綴形態ごとの咀嚼効率の差は非常に重要な情報です。意外ですね、この差の大きさは。
天然歯の咀嚼能率を100%としたとき、各補綴形態の咀嚼能率の目安は以下の通りです。
| 補綴形態 | 咀嚼能率の目安 | 備考 |
|---|---|---|
| 天然歯 | 100% | 基準値 |
| インプラント | 85〜90% | 筋電図(EMG)による研究値。天然歯にほぼ近い |
| ブリッジ | 60〜70% | 隣在歯に固定されるため比較的安定 |
| 部分入れ歯 | 30〜40% | 残存歯の数・支台歯の状態に大きく左右される |
| 総義歯(総入れ歯) | 20〜30% | 粘膜支持のため、咬合力の多くが緩衝される |
総義歯患者の咀嚼効率が天然歯の20〜30%にとどまるという数値は、患者にとって直感的に理解しにくいことがあります。わかりやすく例えると、食事で100gの食物を均等に粉砕できる天然歯に対して、総義歯では同じ作業に約5倍の咀嚼回数が必要になるイメージです。それだけ消化器系への負担が増えることになります。
インプラントが咀嚼効率を85〜90%まで回復できる理由は、顎骨に直接固定されることで咬合力が骨に伝達され、天然歯に近い固有覚(歯根膜感覚)が得られるためです。ただし骨質・骨量・上部構造の設計によって個人差があるため、あくまで目安として扱うことが条件です。
一方で、義歯の咀嚼効率は単に「低い」という話で終わりません。適合精度・咬合高径・義歯床の形態を最適化することで、同じ総義歯でも咀嚼能率には個体差が生まれます。補綴誌の研究では、義歯を正確に調整した群と未調整群では咀嚼能率に有意差が出ることも示されており、調整技術の質が直接、患者の咀嚼効率に影響するといえます。咀嚼効率の数値は、補綴物の質を示すバロメーターでもあるということです。
参考:インプラントと義歯の咀嚼能率の違いについての説明ページです。
タバタデンタルクリニック|インプラントと義歯、咀嚼能率の違い
咀嚼効率の低下は、口腔内にとどまらず全身の健康状態を広範に左右します。いいことですね、このエビデンスが蓄積されてきたことは。
認知症との関係については、東北大学が2023年に発表した研究(米国老年医学会誌掲載)が特に注目されています。この研究では65歳以上の高齢者を対象に統計解析を行った結果、歯が19本以下の人では認知症発症リスクが1.12倍、歯が1本もない人では1.20倍高くなることが示されました。さらに「咀嚼困難あり」と答えた人では1.11倍のリスク上昇が確認されています。咀嚼能力が良好な高齢者は、咀嚼困難な人と比較して認知機能低下のリスクが約半分になるという報告もあります(Arch Gerontol Geriatr誌・2025年)。
咀嚼が脳に影響するメカニズムには複数の経路が考えられています。噛むことによる脳血流の増加、咀嚼による海馬への刺激(記憶・認知に関わる領域)、歯根膜からの固有感覚入力による神経活性化、そして栄養吸収率向上による脳への栄養供給改善、この4点が代表的です。
フレイル・サルコペニアとの関係も重要です。咀嚼効率が低下すると、患者は硬い食品を避けるようになり、タンパク質や食物繊維の摂取が減少します。タンパク質の不足は筋肉量の低下(サルコペニア)につながり、それが全身の運動機能低下(フレイル)へと連鎖します。この悪循環は「オーラルフレイルカスケード」とも呼ばれ、歯科治療による早期介入が健康寿命の延伸につながる根拠として位置づけられています。
歯の本数と咀嚼効率の関係では、8020運動の根拠となったデータが参考になります。残存歯数が20本以上あれば硬い食品でもほぼ満足に咀嚼できることが科学的に示されており、20本を下回ると咀嚼能力が著しく低下するとされています。この「20本」という数字は、臼歯部の対合歯が確保され、後方支持が機能していることを意味します。歯の本数だけが条件ではなく、咬合接触の部位と質がセットで問われます。
参考:東北大学の歯の喪失と認知症リスクの関係に関するプレスリリースです。
東北大学歯学研究科|歯の喪失・咀嚼困難・口腔乾燥があると認知症のリスクが10〜20%高まる(PDF)
咀嚼効率の数値を「測りっぱなし」にしないことが重要です。では、実際に何をすれば効率は上がるでしょうか?
補綴・修復治療によるアプローチが基本です。欠損部への補綴治療は咀嚼効率の回復に直結します。特に遊離端欠損(奥歯が失われたケース)は咀嚼効率に大きく影響するため、義歯やインプラントでの後方支持回復が優先されます。既存義歯がある場合は、咬合高径の適切な設定と義歯床の適合状態の確認・調整が咀嚼効率改善の鍵になります。義歯の適合が悪いと、患者は無意識に軟らかい食品ばかりを選ぶようになり、筋機能が低下する悪循環を招きます。
口腔機能訓練によるアプローチも組み合わせます。日本歯科医師学会のガイドラインでは、咀嚼機能低下に対して「チューインガムやグミゼリーを用いた直接的な咀嚼訓練」「開口訓練」「嚥下体操」が推奨されています。グミゼリーを使った咀嚼トレーニングは、検査用グミと同様の食品を用いて自宅でも継続できるため、患者指導に組み込みやすい方法です。
咀嚼訓練を患者に指導する際は、「1回の食事で片側だけ噛む癖がある場合、左右交互に咀嚼するよう意識してもらう」「1口ごとに30回を目安に噛む(厚生労働省の噛ミング30の考え方)」という2点を中心に、行動変容しやすい形で伝えることが有効です。
栄養指導との連携も見逃せません。咀嚼効率が低い患者では、管理栄養士や歯科衛生士との連携で食事内容のアドバイスを行うことが推奨されています。調理法の工夫(食材を細かく切る・柔らかく煮る)やタンパク質を摂取しやすいメニューへの変更は、咀嚼機能の低下を補いながら栄養状態の悪化を防ぐ手段となります。食生活の改善支援が、フレイル予防と直結するということです。
咀嚼効率の数値はあくまで治療効果の一側面です。患者のQOL(生活の質)改善・全身疾患リスクの低減という大きな目標に向けて、補綴・機能訓練・栄養の3つの軸で介入することが現代の歯科臨床に求められるアプローチです。
参考:口腔機能低下症の検査・診断・訓練方法の詳細はこちらをご参照ください。