舌の神経支配は「舌下神経が支配している」と覚えているだけでは、下顎孔伝達麻酔後の味覚障害を患者に説明できません。
歯科情報
舌の神経支配は、1本の神経がすべてを担っているわけではありません。運動・知覚・味覚という3つの機能ごとに、異なる脳神経が分担しています。さらに、舌の前方部(舌体部)と後方部(舌根部)でも担当神経が切り替わります。この複雑さこそが、歯科臨床において見落とし事故が起きやすい原因の一つです。
まず運動に関しては、舌下神経(第12脳神経)がすべての舌筋を支配しています。内舌筋(上縦舌筋・下縦舌筋・垂直舌筋・横舌筋)も外舌筋(オトガイ舌筋・茎突舌筋・舌骨舌筋)も、口蓋舌筋を除いてすべて舌下神経支配です。これが原則です。
知覚については、舌を前後に二分する「分界溝」を境に担当神経が変わります。舌前2/3(舌体部)の触覚・温痛覚は三叉神経第3枝(下顎神経)の枝である舌神経が支配し、舌後1/3(舌根部)の知覚は舌咽神経(第9脳神経)が担当します。
味覚も同様に、前後で神経が異なります。舌前2/3の味覚は顔面神経(第7脳神経)の枝である鼓索神経が支配しており、舌後1/3の味覚は舌咽神経と一部迷走神経が関与します。鼓索神経はいったん中耳を通過し、その後舌神経と合流して舌に向かうという特殊な経路をたどります。
つまり、舌前2/3では「知覚は舌神経(三叉神経系)、味覚は鼓索神経(顔面神経系)」という二重支配が起きているということですね。
| 部位 | 機能 | 支配神経 | 脳神経番号 |
|---|---|---|---|
| 舌前 2/3(舌体部) | 知覚(触覚・痛覚) | 舌神経(三叉神経第3枝) | V₃ |
| 味覚 | 鼓索神経(顔面神経の枝) | VII | |
| 舌後 1/3(舌根部) | 知覚(触覚・痛覚) | 舌咽神経 | IX |
| 味覚 | 舌咽神経・迷走神経 | IX / X | |
| 全体(運動) | 筋収縮(口蓋舌筋を除く) | 舌下神経 | XII |
| 口蓋舌筋のみ(例外) | 運動 | 迷走神経(咽頭神経叢) | X |
なお、「口蓋舌筋だけは舌下神経ではなく迷走神経支配」という点は国試頻出の例外事項です。見落とすと失点しやすいポイントなので、必ず押さえておきましょう。
参考:舌の神経支配の解剖学的詳細については、日本歯科医師会のテーマパーク8020でも整理されています。
舌の運動は非常に精巧です。咀嚼・嚥下・構音といった異なる口腔機能をこなすためには、形を自在に変える「内舌筋」と位置を変える「外舌筋」が緻密に協調しなければなりません。これが全て舌下神経(XII)という1本の脳神経によって制御されています。
内舌筋は4種類あります。上縦舌筋と下縦舌筋は舌を前後方向に短縮させ、横舌筋は舌の幅を狭めて厚みを増し、垂直舌筋は舌を扁平に広げます。この4つが独立しつつも協調して動くことで、舌は「カップ状」にも「薄いヘラ状」にもなれます。
外舌筋は4種類で、それぞれ起始部が舌の外側にあります。オトガイ舌筋は舌を前方・下方に引き出し(口腔内で最も大きな舌筋)、茎突舌筋は舌を後上方へ牽引します。舌骨舌筋は舌を後下方に引き、口蓋舌筋は軟口蓋を下降させながら舌根部を持ち上げます。これが嚥下の口腔期における食塊の咽頭移送を担う動きです。
臨床的に重要なのはオトガイ舌筋です。舌下神経麻痺が起こると、対側のオトガイ舌筋の引っ張りだけが残るため、舌が病側へ偏位するという特徴的な症状が現れます。これは舌下神経麻痺の鑑別に使える所見ですね。
嚥下の準備期から口腔期にかけて、舌は食塊を形成し咽頭へ送り込む役割を果たします。このとき最大舌圧が重要な指標となります。研究によれば、最大舌圧が20kPa未満になると摂食嚥下障害相当と判定されます。成人の平均最大舌圧は約40kPa程度とされており、20kPaはその半分以下にあたります。高齢患者では加齢による舌筋の萎縮(サルコペニア)が舌圧低下を引き起こすため、歯科での評価が重要な介入ポイントになります。
参考:舌の構造と機能訓練については、以下のJ-Stage論文が参考になります。
歯科処置で最も関係深い感覚神経が「舌神経」です。舌神経は三叉神経第3枝(下顎神経)から分岐し、下顎孔の前方・内側を下行して舌前方2/3の触覚・温痛覚を司ります。さらに、途中で鼓索神経が合流するため、舌神経の中には「知覚線維(三叉神経系)」と「味覚線維(顔面神経系)」が混在して走行しています。
これが臨床上の重大ポイントです。舌神経が損傷されると、知覚障害(しびれ・感覚低下)だけでなく、同時に舌前2/3の味覚障害も生じます。患者から「舌がしびれるだけでなく味もわからない」という訴えがあれば、それは舌神経(+鼓索神経)の損傷を強く示唆します。
下顎孔伝達麻酔(下顎神経ブロック)後の舌神経麻痺は、報告によると約3.6%の頻度で発生するとされています。これは浸潤麻酔よりも格段に高い数字です。また、下顎智歯の抜歯後にも全体で約1%の確率で舌神経もしくは下歯槽神経の麻痺が報告されています。
知覚障害の程度はしびれ(感覚過敏)、感覚低下、完全な感覚脱失と段階があり、多くは一時的ですが、一部は長期化・永続化します。治療法は確立されていない部分も多く、予防と早期対応が最善です。早期発見に注意すれば大丈夫です。
舌神経損傷後の対応については、「歯科治療による下歯槽神経・舌神経損傷の診断とその治療に関するガイドライン」(Mindsに掲載)が参考になります。
Minds「歯科治療による下歯槽神経・舌神経損傷の診断とその治療に関するガイドライン」
舌は「筋肉のかたまり」であると同時に、口腔機能のハブ(中心)です。咀嚼・嚥下・構音という3つの口腔機能すべてに、深く関与しています。
構音においては、日本語の子音の多くが舌の動きによって生成されます。「タ行・ダ行」では舌尖が切歯乳頭付近に接触し、「カ行・ガ行」では舌根部が軟口蓋に接触します。「サ行」は舌尖を口蓋に近づけて気流を絞り、「ラ行」は舌尖で口蓋を弾くように動かします。これらの動きが一瞬のうちに連続して行われています。
舌下神経麻痺が起きると、この一連の運動が障害され構音障害( dysarthria)が生じます。「舌がまわらない」という感覚的な訴えも、舌下神経系の問題から来ていることが少なくありません。
嚥下においては、舌が食塊を口腔内で形成し、舌骨・喉頭の挙上とともに食塊を咽頭へ送り込む「口腔期」を担います。この際、舌尖から舌背にかけての蠕動様運動(ストリッピング動作)が食塊の後方移送を担います。舌下神経が正常に機能していることが大前提です。
舌の機能低下が進行すると、口腔機能低下症という疾患として診断対象になります。2018年から保険収載された口腔機能低下症の7項目には「低舌圧(最大舌圧30kPa未満)」が含まれており、歯科医院でも舌圧測定が行えるようになっています。これは使えそうです。
舌の機能低下が摂食嚥下に与える影響と、評価・トレーニング法については以下が参考になります。
e-oral.jp「摂食嚥下における舌の役割と評価・トレーニングの方法」
「なぜ舌の前2/3と後1/3で神経支配が違うのか?」この疑問を解くカギが、じつは約4億年前の生物進化にあります。これは教科書の丸暗記だけでは理解しにくい部分ですが、理解できると支配領域の区分が論理的に記憶できます。
舌根部(後1/3)は「原始舌(一次舌)」と呼ばれ、魚類の時代から存在する構造です。魚類の段階では舌は骨格性の固定した板状であり、筋肉はありませんでした。この時期に形成された舌根部の神経支配は舌咽神経(IX)と迷走神経(X)という、より古い系統の神経です。
一方、舌体部(前2/3)は「二次舌」と呼ばれ、両生類が地上に進出してから発達した構造です。地上では「手の届かない飛虫を舌で捕える」ために舌に筋肉を発達させる必要がありました。カエルが舌を伸ばしてエサを捕らえる動きがその典型です。この時期に形成された舌体部の神経支配には、より進化した三叉神経(V)と顔面神経(VII)が割り当てられています。
つまり、「舌体部=新しい構造=新しい神経、舌根部=古い構造=古い神経」という対応関係で整理できます。これは単なる雑学ではありません。
臨床的には、この理解が「なぜ下顎神経ブロックで舌前方の感覚だけが消えて後方は残るのか」「なぜ舌根部の腫瘍が嚥下障害と味覚障害を同時に引き起こすのか」という現象を説明する根拠になります。解剖の暗記が臨床推論に変わるのが、この視点の最大のメリットです。
参考:舌の進化と神経支配の関係については以下が詳しいです。
スマイル+(Plus)「咬合と発音機能〜その4〜舌の進化と発音」
ここまでの知識を臨床シーンに落とし込んでみましょう。神経支配の知識は試験対策だけでなく、患者対応・術前説明・症状アセスメントの場面で直接役立ちます。
①術前インフォームドコンセントへの応用:下顎智歯の抜歯や下顎孔伝達麻酔を行う前には、舌神経損傷のリスクを患者に説明する義務があります。「舌のしびれや味覚の変化が一時的に起こることがある」という説明は、舌神経+鼓索神経の合流走行という解剖学的根拠に基づいています。約1%(抜歯)から3.6%(伝達麻酔)という数字も添えることで、患者の信頼を高めることができます。
②術後の神経症状アセスメント:処置後に患者から「舌がしびれる」「食べ物の味がしない」という訴えがあった場合、速やかに症状の種類・範囲・程度を確認します。感覚障害が舌前2/3に限局し、かつ味覚障害も伴っているなら舌神経(+鼓索神経)の損傷を疑います。一方、舌後方への障害なら舌咽神経の問題が疑われます。症状が3ヶ月以上続く場合は専門機関への紹介を検討します。
③高齢患者の舌機能評価:口腔機能低下症のスクリーニングでは、舌圧測定が重要な検査です。舌圧計(例:JMS舌圧測定器)を用いて最大舌圧を測定し、30kPa未満を低舌圧として診断します。嚥下機能低下が疑われる場合は20kPa未満が一つの目安となります。測定後は舌圧訓練(パタカラ体操・舌突出訓練など)を指導し、変化を記録していくことが推奨されます。
④構音障害・嚥下障害への対応:脳卒中後や頭頸部腫瘍術後の患者では、舌下神経麻痺や舌切除により舌運動が制限されることがあります。このような場合、補綴的アプローチとしてPAP(舌接触補助床:Palatal Augmentation Prosthesis)が有効です。PAPは上顎義歯の口蓋部を膨隆させ、舌が届かない部分を補うことで構音点を回復し、嚥下時の食塊形成を助けます。
舌の機能評価と神経学的アセスメントを組み合わせることで、歯科の役割は治療にとどまらず「口腔機能管理」という広い範囲へ拡張します。これが基本です。
口腔機能低下症の診断基準と保険算定については、日本老年歯科医学会の資料が詳細です。
日本老年歯科医学会「口腔機能低下症 保険診療における検査と診断」(PDF)