舌神経の損傷は、下顎智歯抜歯の際に平均わずか0.4mmしか骨面から離れていない部位で起こります。
舌神経は、第5脳神経である三叉神経(Trigeminal nerve)の第3枝、下顎神経(V3)から分岐する感覚神経です。下顎神経は頭蓋底の卵円孔を通って頭蓋外へ出たのち、前神経幹と後神経幹に分かれます。舌神経はそのうち後神経幹からの分枝のひとつです。
分岐後の舌神経は、まず口蓋帆張筋と外側翼突筋の間を下行し、その後、内側翼突筋の外側面に沿って下行していきます。これが走行の最初の大きなポイントです。ここで下歯槽神経と分岐し、それぞれ別の経路をたどることになります。下歯槽神経は下顎骨内部の下顎管(下歯槽管)に入りますが、舌神経は骨の外側、軟組織の中を走行し続けます。
つまり、舌神経はCTで直接描出しにくい軟組織内の神経である、という点が臨床上の最大の難所です。
その後、舌神経は内側翼突筋前縁・顎舌骨筋後縁・上咽頭収縮筋下縁・茎突舌筋内側縁という4つの筋によって囲まれた「筋間隙」の中を走向します。この筋間隙の中でも特に、内側翼突筋前縁と顎舌骨筋後縁の間の領域で、舌神経は下顎骨骨面に最も近接します。新潟大学の科研費研究(研究課題番号:19K10283)において、解剖体52側を使った精密な計測によれば、この部位での舌神経と下顎骨の最短距離の平均値は **0.40mm±0.39mm** と報告されています。これは名刺1枚分の厚みよりも薄い距離です。
筋間隙を通過した後、舌神経は口底の舌下隙に入り、下顎大臼歯部ではワルトン管(顎下腺管)の下をくぐって、最終的に舌の前方2/3の粘膜・口腔底粘膜へと分布します。また、大臼歯のすぐ内側下方では、口腔粘膜の上から舌神経を触知することが可能なほど表在しています。この解剖学的位置関係が、臼歯周辺の処置における損傷リスクの高さに直結しています。
新潟大学・科研費研究「解剖体頭部CTによる舌神経3次元的走行経路と筋間隙との関係性の解明」(舌神経の骨面への近接距離・筋間隙パターン分類の詳細が掲載)
舌神経の走行において、見落としがちだが臨床上きわめて重要なのが「鼓索神経との合流」です。これを知らないと、損傷時の症状を正確に患者へ説明できません。
鼓索神経(Chorda tympani nerve)は、第7脳神経である顔面神経の枝のひとつで、茎乳突孔の手前で顔面神経管から分岐します。この神経は錐体鼓室裂を通過した後、側頭下窩に出て翼突下顎隙で舌神経に合流します。意外ですね。三叉神経系の舌神経に、顔面神経系の鼓索神経が相乗りする構造になっているのです。
鼓索神経は2種類の神経線維を含んでいます。ひとつは舌前方2/3の味覚を伝える特殊感覚神経線維、もうひとつは顎下腺・舌下腺の分泌を支配する副交感神経線維です。この副交感神経線維は、舌神経の走行途中に存在する「顎下神経節」でシナプスを形成し、顎下腺・舌下腺の唾液分泌を調節します。
つまり舌神経は「感覚神経」だけでなく、「味覚」「唾液分泌調節」という異なる機能をもつ神経線維も同乗させて走行しているということですね。
この事実は、抜歯時の舌神経損傷がなぜ「しびれ(知覚障害)」だけでなく「味覚消失(味覚障害)」や「唾液分泌の変化」まで引き起こすのかを説明します。東京歯科大学の報告でも、「舌神経損傷の際には知覚障害のみならず、鼓索神経線維も同時に損傷されるため、味覚障害も合併することが多い」と記されています。
歯科医従事者として、患者への説明では「知覚麻痺が起こる可能性」だけでなく「味覚障害が残る可能性もある」という2点をセットで伝えることが医療水準上の義務です。これは原則です。
J-Stage「歯科治療後に口腔感覚異常を生じた症例の検討」(鼓索神経との合流・舌神経損傷時の複合障害について詳細な記述あり)
舌神経の走行経路には個人差があります。これを把握していないと、「標準的な走行」を想定したまま処置を進め、損傷が起きてから初めてリスクに気づくという事態になりかねません。
前出の科研費研究では、内側翼突筋前縁と顎舌骨筋後縁の前後的な位置関係を3つの型に分類しています。
| 型 | 筋間隙の形態 | 頻度(16例中) | 損傷リスク |
|---|---|---|---|
| Type I | 内側翼突筋前縁と顎舌骨筋後縁が離開 | 9例(最多) | 骨面上を走向 → 高リスク |
| Type II | 上方で一部接触 | 5例(中間) | 中等度リスク |
| Type III | 双方が重なる | 2例(最少) | 骨面を走向しない → 低リスク |
ポイントは、Type I(最も多い型)ほど顎舌骨筋後縁が智歯に近接し、舌神経が骨面上を走向するため損傷リスクが高くなるという点です。また、この研究はCT画像上で筋間隙を観察することによって、「患者固有の舌神経走向経路をある程度予測できる」という重要な知見を示しています。
術前に通常のCTが撮影されている場合、内側翼突筋・顎舌骨筋・上咽頭収縮筋の位置関係を読み取ることで、個々の患者の舌神経走向リスクをある程度評価できるということです。これは使えそうです。
智歯の舌側歯肉の不用意な剥離、舌側骨板付近のエレベーター操作、そして下顎孔伝達麻酔時の注射針先端の位置なども、舌神経損傷の原因になります。特に下顎孔伝達麻酔では、麻酔針を用いた際に舌神経を損傷した報告が複数あり、麻酔時の注射針刺入角度・深度の管理も重要です。
原田歯科医院「歯科における末梢神経損傷」(舌神経損傷後の神経腫形成・疼痛メカニズム・治療法について詳しく解説)
舌神経が支配する感覚領域は、大きく3つに整理できます。
この支配領域を理解しておくと、損傷後の症状説明が格段に具体的になります。
舌神経が切断されると、切断部より末梢側は概ね1か月程度で神経変性(ウォラー変性)が起こります。その結果、末梢側からの刺激は伝わらなくなり、知覚麻痺が生じます。知覚麻痺が起こるということですね。さらに、神経末端にある味蕾も変性・消失していくため、味覚障害も生じます。
一方、切断端では新たな細い神経の枝(スプラウト)が形成されようとしますが、末梢側の神経と接合できない場合が多く、スプラウトやシュワン細胞・結合組織が塊を形成して「神経腫(ニューローマ)」を作ります。神経腫にはナトリウムチャンネルが過剰に集積するため、軽微な刺激でも興奮が起こり、慢性疼痛の原因になります。さらに神経腫にはノルアドレナリン受容体が新たに形成されるため、交感神経が興奮するたびに痛みが発生するという悪循環に陥ります。
治療の難しさがあります。ビタミンB12製剤(メチコバールなど)やATP製剤による神経修復促進、星状神経節ブロックによる交感神経抑制が行われますが、完全回復を保証できるものではありません。プレガバリン(リリカ)やトラムセット配合錠なども用いられますが、著効とはいかないケースも多いのが現状です。
東京歯科大学の報告(J-Stage掲載)によれば、下顎智歯抜歯後の外科的舌神経損傷では、舌神経とともに伴走する鼓索神経線維も同時に損傷されるケースが多く、「知覚障害+味覚障害」の複合障害として現れることが多いとされています。これに注意すれば対応が変わります。
WHITE CROSS「外科的親知らず抜歯後の感覚障害の発生率」(舌神経損傷が2.1%に発生という統計データが確認できる)
舌神経の走行と損傷リスクを熟知することは、手技の安全性だけでなく、法的リスクの回避にも直結します。
2017年3月23日(東京地判 平成29年3月23日)の裁判例では、左側下顎智歯の抜歯後に舌神経損傷による知覚・味覚障害が生じた事案で、患者がクリニックに損害賠償を請求し、**529万4785円(請求額1850万3284円)** の一部認容判決が出ています。
注目すべきは判決の内容です。裁判所は手技上の過失や神経の位置を確認する義務違反は否定しました。しかし、「投薬によって智歯を保存するという選択肢があったこと」「知覚・味覚障害の後遺症が残るリスクがあること」を術前に説明しなかった点について、説明義務違反を認定したのです。
この判決のポイントは3点あります。
具体的な対策として、同意書には「下顎智歯抜歯に伴う舌神経損傷のリスク(知覚障害・味覚障害の後遺症の可能性)」を明記することが不可欠です。月間約4万7000件(厚生労働省2016年データ)もの埋伏智歯症例が行われている現状では、この説明義務の徹底が最重要課題のひとつです。痛いところですね。
厚生労働省の医療技術再評価提案書によると、智歯抜歯による舌神経障害の発症頻度は約0.08%と報告されています。一見低い数字ですが、月間症例数に換算すると相当数の損傷リスクが存在します。予防可能なリスクに注意すれば大丈夫です。
歯科裁判事例【4】「知覚・味覚障害に関するリスク説明」(東京地判平成29年3月23日・529万円認容の全詳細)
十分な情報を収集しました。記事を作成します。