「顔面神経を傷つけていないのに、抜歯後に患者さんの味覚が消える場合があります。」
歯科情報
鼓索神経(Chorda tympani)は、顔面神経(第VII脳神経)が側頭骨内の顔面神経管を下行する途中、管の下端近くで分岐します。これが出発点です。
分岐した後、鼓索神経は鼓索神経小管という細い骨の通路に入り、上前方に向かって進みます。そして中耳の鼓室に入り、鼓膜の内面でキヌタ骨の長脚とツチ骨の柄の間を通過します。この部分は中耳の耳小骨のすぐそばを走り抜けるという、解剖学的に非常に精緻な経路です。
鼓室を通過した後、錐体鼓室裂(Petrotympanic fissure)を通って頭蓋底の外面に出ます。そこから下前方に走り、側頭下窩で三叉神経の下顎神経から出た舌神経に「鋭角」で合流します。
| 走行ステップ | 通過部位 |
|---|---|
| ①顔面神経管での分岐 | 顔面神経管下端近く |
| ②鼓室への進入 | 鼓索神経小管→鼓室 |
| ③耳小骨間の通過 | キヌタ骨長脚・ツチ骨柄の間 |
| ④頭蓋底外面へ | 錐体鼓室裂 |
| ⑤舌神経への合流 | 側頭下窩(内側翼突筋外側面付近) |
この走行において注目すべきは、鼓索神経が舌神経と合流する時点で、その後の舌神経の中には「三叉神経由来の一般感覚線維(舌神経固有)」と「顔面神経由来の味覚線維・副交感線維(鼓索神経)」が混在することになる点です。つまり走行ルートが違う2つの神経系が、舌という一臓器を支配するために途中で合流するわけです。これは意外ですね。
歯科臨床では、特に下顎大臼歯部の舌側操作時に「舌神経=三叉神経の感覚神経」だけを意識していると、鼓索神経成分の損傷を見落とすリスクがあります。舌神経が損傷された場合、鼓索神経合流点より末梢側であれば味覚障害と唾液分泌障害も同時に発生することを念頭に置くことが基本です。
参考:舌神経と鼓索神経の解剖学的関係について詳しく解説されています
【舌神経】鼓索神経も乗ってく?|室生 暁 解剖学者・医師 - note
「顔面神経=表情筋を動かす神経」というイメージを持つ歯科従事者は多いです。確かにそれは正しいのですが、顔面神経は実際には4種類の神経線維成分を持つ複合的な混合神経です。
顔面神経の4つの神経線維成分を整理すると、次のようになります。
このうち「副交感線維」と「味覚線維」は、顔面神経本幹と区別して「中間神経(Nervus intermedius)」と呼ばれる部分に含まれます。鼓索神経はまさにこの中間神経成分、すなわち「副交感線維+味覚線維」を末梢側へ届けるための経路として機能します。
一方、顔面神経本幹(狭義の顔面神経)が担うのは、表情筋をはじめとした運動支配です。茎乳突孔から頭蓋の外に出た後、耳下腺内で神経叢を形成し、側頭枝・頬骨枝・頬筋枝・下顎縁枝・頚枝の5本に分かれて顔面の表情筋全体に分布します。
つまり「顔面神経」と「鼓索神経」の最大の違いは、以下のように整理できます。
| 項目 | 顔面神経(本幹) | 鼓索神経 |
|---|---|---|
| 分類 | 顔面神経(第VII脳神経)の主幹 | 顔面神経の枝(中間神経成分) |
| 主な神経線維 | 特殊内臓性遠心性(運動) | 副交感線維+味覚線維 |
| 支配器官 | 表情筋・アブミ骨筋など | 舌前2/3の味蕾・顎下腺・舌下腺 |
| 出口 | 茎乳突孔 | 錐体鼓室裂→舌神経へ合流 |
| 損傷時の症状 | 表情筋麻痺・閉眼不全・聴覚過敏 | 舌前2/3の味覚消失・唾液分泌低下 |
これが基本です。顔面神経本幹が無事でも、鼓索神経が損傷されれば味覚障害は生じます。逆に鼓索神経が正常でも、顔面神経本幹が麻痺すれば表情は動かせません。それぞれが独立した役割を持つということですね。
参考:顔面神経の詳細解剖と4つの成分について権威ある解説があります
顔面神経[Ⅶ] - 船戸和弥の解剖学テキスト
鼓索神経は「味覚を伝える神経」として知られていますが、実はもう一つの重要な機能を持ちます。それが顎下腺・舌下腺への副交感性分泌線維です。
味覚線維のルートから説明します。舌前2/3の味蕾からの味覚情報は、鼓索神経→顔面神経→膝神経節→中間神経→延髄の孤束核、という経路で脳まで届きます。膝神経節は脊髄神経節に相同なもので、味覚一次ニューロンの細胞体はここにあります。孤束核でシナプスし、味覚の二次ニューロン以降は視床・大脳皮質味覚野へと伝わります。
副交感線維のルートはこちらです。上唾液核(延髄網様体吻側部)→中間神経→顔面神経管内→鼓索神経→舌神経→顎下神経節(ここでシナプス)→節後線維→顎下腺・舌下腺、という経路で分泌を促進します。
この2路が同一の神経(鼓索神経)の中を同時に走っています。そのため鼓索神経が損傷されると、「味がわからない」という味覚障害と「唾液が出にくい」という分泌障害が同時に起こります。歯科処置後に患者さんから「食べ物の味が変になった」という訴えを受けたとき、唾液の出が悪くないかも一緒に確認することが、損傷神経の特定に役立ちます。これは使えそうです。
顎下神経節という小さな神経節が、この副交感路の中継点になっています。顎下腺の上方・舌神経のすぐ近くに位置し、ここでシナプスした節後線維が顎下腺・舌下腺に分布します。歯科の解剖実習でも剖出対象になる重要な構造です。
参考:鼓索神経と副交感神経の関係、顎下神経節について詳細に記述されています
鼓索神経|異事増殖大事典 - クインテッセンス出版
鼓索神経は顔面神経そのものではありませんが、歯科処置の際に損傷リスクがある場面が複数あります。損傷リスクの高い処置を知っておくことが予防の第一歩です。
最もリスクが高いのが、下顎智歯(親知らず)の抜歯です。下顎第三大臼歯の舌側には舌神経が走行しており、この舌神経の中にはすでに鼓索神経の成分が合流しています。舌神経の損傷報告では発生率が文献により0.2〜23%と幅があり、永続的な感覚障害が残る症例も報告されています。鼓索神経合流点より末梢で損傷が起きれば、一般感覚障害に加えて味覚障害・分泌障害も合併します。
次に多いのが、下顎孔伝達麻酔時の神経損傷です。注射針が舌神経に直接刺入してしまうケースや、血管収縮薬による局所虚血が神経障害を引き起こすケースが報告されています。伝達麻酔そのものが鼓索神経を「直接ブロック」するわけではありませんが、針先の位置によっては近傍を走る舌神経(鼓索神経混在)を傷つけるリスクがあります。
また、顎下腺摘出術や口腔底部の処置でも舌神経の損傷リスクがあり、口腔外科学会の認定医試験でも舌神経損傷の回避が問われる重要テーマです。
損傷が疑われる場合は、テーストディスク法(濾紙ディスク法)による鼓索神経支配領域(舌前2/3)の味覚検査が診断に有効です。甘・塩・酸・苦の4種を片側ずつ比較することで、損傷側・損傷レベルの特定が可能です。口腔顔面神経機能学会の口唇・舌感覚異常判定認定医制度では、このような検査法の習得が求められています。
参考:下顎孔伝達麻酔と舌神経障害の関係について学術的に解説されています
口腔顔面神経機能学会 口唇・舌感覚異常判定認定医制度規程
顔面神経麻痺と鼓索神経障害は、原因となる障害部位が違い、症状も明確に異なります。しかし「顔面神経の問題」として混同されやすいため、それぞれの症状の違いを整理しておくことが臨床的に重要です。
顔面神経本幹(茎乳突孔より末梢)が障害された場合の症状は、表情筋麻痺(閉眼不全・口角下垂・鼻唇溝消失)が中心です。ベル麻痺がその代表で、茎乳突孔から出た後の障害では、味覚障害や唾液分泌障害は出現しません。
一方、顔面神経管内の鼓索神経分岐部より中枢側(膝神経節とアブミ骨筋枝の間など)で障害された場合は、表情筋麻痺に加えて味覚障害・唾液分泌障害・聴覚過敏が合併します。顔面神経管内の障害部位によって症状の組み合わせが変わることから、歯科医師国家試験でも「障害部位の特定」が頻出問題となっています。
鼓索神経単独の障害(つまり顔面神経本幹は無事)なら、表情筋麻痺はまったく生じず、「味覚が低下した」「口が乾く感じがする」という訴えだけが前面に出ます。これが冒頭の驚きの一文につながる現象です。顔面神経を傷つけていなくても、抜歯後に味覚障害が発生することは実際にあります。
このような症状の組み合わせをもとに障害部位を推定し、必要に応じて耳鼻咽喉科や口腔外科と連携することが、歯科チームとして適切な対応です。原則として障害部位の精査が条件です。
参考:顔面神経管内の障害部位と症状の関係が学術的に解説されています
顔面神経麻痺|一般社団法人 日本頭蓋顎顔面外科学会