止血できず、インプラントを突き刺して塞ぐしかない血管叢があなたの処置部位のすぐそばにあります。
歯科情報
翼突筋静脈叢(よくとつきんじょうみゃくそう、英:pterygoid plexus)は、側頭下窩(そくとうかか)に広がる複雑な静脈網です。側頭下窩とは、頬骨弓の下方・下顎枝の内側に位置するくぼみのことで、顎関節や咀嚼筋が集まる、歯科臨床上きわめて重要なエリアです。
この静脈叢の位置をより具体的にいうと、「内側翼突筋と外側翼突筋の間」および「外側翼突筋と側頭筋の間」を占めるように広がっています。単純に「翼突筋の周囲にある」というイメージではなく、複数の筋肉の間に密な静脈網が立体的に入り込んでいる点が特徴的です。
翼突筋静脈叢は、顎動脈(maxillary artery)が側頭下窩で分枝した多くの枝に対応した静脈が流入することで形成されます。流入する静脈は教科書によって多少異なりますが、『日本人体解剖学』では主に以下のものが挙げられています。
| 流入する静脈(例) | 対応する動脈分布域 |
|---|---|
| 中硬膜静脈 | 中硬膜動脈(硬膜) |
| 深側頭静脈 | 深側頭動脈(側頭筋) |
| 翼突管静脈 | 翼突管動脈 |
| 咬筋静脈 | 咬筋動脈(咬筋) |
| 頬静脈 | 頬動脈(頬粘膜) |
| 歯槽静脈 | 後上歯槽動脈 |
| 口蓋静脈 | 下行口蓋動脈 |
| 蝶口蓋静脈 | 蝶口蓋動脈(鼻腔) |
これほど広い領域から血液を集めているため、損傷時の出血量は想像をはるかに超えることがあります。顎動脈の分布域はほぼ口腔周囲全体と同義ですから、「翼突筋静脈叢を損傷する=顎動脈全分布域の静脈血が一か所から流出する」と理解しておくと、そのリスクの大きさが直感的にわかります。
翼突筋静脈叢に集まった血液は、最終的に顎静脈(maxillary vein)へと流れ出します。顎静脈は浅側頭静脈と合流して下顎後静脈(retromandibular vein)を形成し、その後、内頸静脈または外頸静脈へと合流して心臓へ戻る経路をたどります。
つまり、翼突筋静脈叢は口腔・顎顔面領域の静脈血を「一度まとめて受け取る中継点」として機能しています。これが基本です。
参考リンク(翼突筋静脈叢の流入・流出静脈の模式図を掲載)。
翼突筋静脈叢 - Visual Anatomy 視覚解剖学
翼突筋静脈叢を理解するうえで、隣接する「翼突下顎隙(よくとつかがくげき)」との位置関係を把握しておくことが欠かせません。翼突下顎隙とは、下顎枝の内側面と内側翼突筋との間にある隙間のことです。歯科臨床では、まさにこの空間に下歯槽神経と舌神経が走行するため、下顎孔伝達麻酔の針が通過するルートとして重要視されています。
翼突下顎隙の後上方には、内側翼突筋と外側翼突筋の間が広がっており、そこに翼突筋静脈叢が密に存在しています。伝達麻酔の際に針を深く刺しすぎると、翼突筋静脈叢に穿刺してしまうことがあります。
伝達麻酔後の血腫(けっしゅ)は、24〜48時間程度で消退することが多く、紫斑も2週間で消失することが一般的です。ただし、血腫によって内側翼突筋や外側翼突筋が圧迫されると、外傷性炎症性の開口障害が生じます。自発痛は比較的軽度ですが、刺入点付近の鋭痛や嚥下痛を訴えるケースがあり、症状緩解まで1週間程度かかることがあります。
また、翼突筋静脈叢の中には弁(静脈弁)がほとんど存在しないことが知られています。これは重大な意味を持ちます。静脈弁がないと、血液は双方向に流れやすくなるため、炎症や感染が周囲に広がりやすくなるのです。これが後述する「海綿静脈洞への感染波及」の解剖学的な根拠となっています。
翼突下顎隙・咀嚼筋隙と翼突筋静脈叢の位置関係は、口腔外科手術時の深部解剖を理解するうえでも欠かせない知識です。
参考リンク(翼突下顎隙・側頭下窩の解剖と伝達麻酔への応用)。
翼突下顎隙近位注射による下歯槽神経伝達麻酔法における局所麻酔合併症研究 - KAKEN
インプラント治療における翼突筋静脈叢の損傷リスクは、上顎臼後結節(きゅうごけっせつ)部への埋入時にとくに問題となります。上顎臼歯部は歯槽骨吸収によって骨量が不足しやすく、通常の位置にインプラント体を埋入できない場合、臼後結節部が代替部位として検討されます。
その臼後結節のすぐ後方に翼突筋静脈叢が位置しているのです。日本口腔インプラント学会の治療指針(2024年版)でも「翼突筋静脈叢を損傷すると静脈性の出血を生じ、止血は頬骨弓と側頭筋の存在により困難である」と明記されており、ガイドラインレベルで注意喚起がなされています。
インプラント専門医の間では、「翼突静脈叢を損傷した場合、インプラント体をそのまま挿入して出血を物理的に塞ぐしか手段がない」とされることがあります。鉗子結紮や圧迫での止血ではうまくいかないケースが多く、一般開業医レベルでは対応が非常に困難です。臼後結節へのインプラント埋入は「上顎で最もリスキーな部位のひとつ」と位置づける専門家もいます。
具体的な回避策としては次のポイントが重要です。
CTを事前に撮影しておくことが条件です。パノラマX線像だけでは骨厚や翼突筋静脈叢との距離を正確に把握することは困難であり、安全な埋入計画にはCT情報が不可欠です。
参考リンク(インプラント埋入時の翼突筋静脈叢損傷リスクと対応法)。
インプラント埋入時の注意点(臼後結節と翼突静脈叢) - 小倉歯科
参考リンク(日本口腔インプラント学会 口腔インプラント治療指針2024)。
口腔インプラント治療指針2024(日本口腔インプラント学会)PDF
翼突筋静脈叢が歯科臨床上とくに危険な理由のひとつが、海綿静脈洞(かいめんじょうみゃくどう)との直接的な交通です。翼突筋静脈叢は、以下の3つの孔を経由して頭蓋内の海綿静脈洞と連絡しています。
これらの孔には弁構造がないため、感染性細菌を含んだ血液が翼突筋静脈叢に流入すると、そのまま頭蓋内に波及する可能性があります。事実、齲歯(うしょく)を放置した結果として海綿静脈洞血栓症(cavernous sinus thrombosis:CST)が発症した症例が国内外から複数報告されており、臨床神経学誌には54歳女性患者の症例報告が掲載されています。
この報告では、入院1年前に齲歯の治療を中断したことが発端となりました。未治療の化膿性根尖性歯周炎から敗血症を来し、口腔内常在菌であるStreptococcus constellatusが翼突筋静脈叢を経由して海綿静脈洞に流入、血栓症を引き起こしたと推定されています。初期症状は頭痛・発熱・眼窩周囲の腫脹疼痛で、最終的に両側の眼球運動障害が出現しました。
これは決して特殊なケースではありません。翼突筋静脈叢は顔面静脈とも自由に交通しており、顔面の皮膚感染・口腔内感染・歯肉感染のいずれからも海綿静脈洞に感染が波及しうるルートとなっています。
海綿静脈洞血栓症は依然として致死率の高い疾患であり、抗菌薬と抗凝固療法が柱となりますが、早期診断がなければ神経麻痺・意識障害に至る可能性があります。歯科従事者にとって、「治療中断中の患者に対する感染リスクの説明」と「根尖性歯周炎の放置がただの歯の問題ではない」という認識は、患者への適切なインフォームドコンセントにも直結します。
参考リンク(齲歯から海綿静脈洞血栓症・Lemierre症候群を発症した症例報告)。
齲歯が原因で生じた感染性海綿静脈洞血栓症とLemierre症候群の合併例 - 臨床神経学会PDF
翼突筋静脈叢に関して、教科書や検索上位記事では「位置と構造」や「感染の波及」が中心に扱われます。ところが、歯科臨床においてもうひとつ重要なのが、「局所麻酔薬の血管内注入(血管内誤注入)」との関係です。
下顎孔伝達麻酔において、針が翼突筋静脈叢に刺入したまま局所麻酔薬を注入すると、麻酔薬が静脈を通じて全身循環に入ります。とくにアドレナリン(エピネフリン)が添加されたカートリッジを使用している場合、血管内注入による動悸・血圧上昇・頻脈・最悪の場合アナフィラキシー様反応が起こりえます。また、局所麻酔薬自体の血中濃度が急上昇することで局所麻酔中毒(多弁・興奮、続いてけいれん・心停止)のリスクも高まります。
歯科麻酔学の教科書では、この予防策として「回し引き(aspiration)を必ず実施すること」が強調されています。回し引きで血液の逆流が確認されれば、針先が血管内にある証拠ですから、針を引き戻して再刺入しなければなりません。翼突筋静脈叢の静脈径は細いものから太いものまで混在しており、細い血管だと回し引きで血液が逆流しにくい場合もあります。そのため「1回引いて血液が出なかったから安全」と過信することは危険で、低速・少量ずつの注入が原則です。
この「血管内誤注入の防止」という視点は、翼突筋静脈叢の場所を正確に把握していることで初めて活きてきます。解剖知識は単なる暗記ではなく、手技の安全マージンを増やすための実用的なツールです。これは使えそうです。
翼突筋静脈叢は弁が少ないため、一度血管内注入が起きると薬液がすみやかに拡散しやすいという特性もあります。逆に言えば、正しい手技さえ守れば血管内注入は十分に回避できるリスクでもあります。
参考リンク(歯科局所麻酔の偶発症と翼突下顎隙周辺での合併症)。
歯科局所麻酔の偶発症と予防対策・対応(学研書院PDF)