顔の筋筋膜痛を「歯が原因」と判断して処置しても、約40%のケースで症状が改善しないという報告があります。
顔面の筋筋膜痛(Myofascial Pain:MFP)は、顎関節症(TMD)のサブタイプとして分類されることが多く、DC/TMD(Diagnostic Criteria for Temporomandibular Disorders)の分類ではAxis I の「筋肉痛」カテゴリに含まれます。
歯科従事者にとって最も重要なのは、「歯原性疼痛との鑑別」です。患者が訴える顔の痛みが、う蝕や歯髄炎、歯周炎によるものなのか、それとも筋筋膜性疼痛によるものなのかを正確に区別できないと、不必要な抜髄や抜歯につながるリスクがあります。
鑑別のための主なチェック項目は以下のとおりです。
筋筋膜痛の顔への関連痛は、咬筋のトリガーポイントから下顎・頬・耳前部へ放散するパターンが典型的です。これが「奥歯が痛い」「耳が痛い」という訴えとして現れるため、耳鼻科や歯科で原因不明と診断されるケースが後を絶ちません。
つまり、顔の痛みイコール歯科疾患ではありません。
日本疼痛学会誌(J-STAGE):顔面・口腔領域の疼痛に関する論文検索に活用できます
トリガーポイント(Trigger Point:TrP)とは、骨格筋の過緊張帯(taut band)の中に形成される過敏な局所で、圧迫・伸展刺激によって局所痛と遠隔部への関連痛を再現するポイントです。顔面・頭頸部領域では特に以下の筋が重要です。
| 筋肉 | トリガーポイントの位置 | 関連痛の放散先 |
|---|---|---|
| 咬筋(浅層) | 頬骨弓下縁〜下顎角 | 上下臼歯・頬・耳前部 |
| 咬筋(深層) | 下顎枝後面 | 耳・顎関節部 |
| 側頭筋 | 側頭部(前・中・後) | 前頭部・上顎前歯〜臼歯・こめかみ |
| 内側翼突筋 | 翼突窩内面 | 口腔内・咽頭・耳下部 |
| 胸鎖乳突筋 | 胸骨頭・鎖骨頭 | 眼窩上部・頬・前額・後頭部 |
側頭筋のトリガーポイントは「上顎前歯が痛い」という訴えを生じさせることがあります。歯科ではう蝕がないのに上前歯が痛いという患者を経験することがありますが、その原因が側頭筋のTrPであることは意外に見落とされがちです。
これは見落とすと痛い事実ですね。
活性トリガーポイント(Active TrP)と潜在性トリガーポイント(Latent TrP)の区別も重要です。活性TrPは安静時にも痛みを発し、潜在性TrPは触診時のみ痛みが再現されます。歯科治療後に「なぜか痛みが残る」ケースの一部は、この潜在性TrPが治療ストレスで活性化された可能性があります。
厚生労働省 e-ヘルスネット:口腔・歯科領域の基礎情報として参考にできます
筋筋膜痛の第一選択治療は、侵襲を最小限にした保存的・可逆的アプローチです。不可逆的な咬合調整や補綴処置を先行させることは、現在のガイドラインでは推奨されていません。
保存的治療の柱は以下の3つです。
スプリントは「咬み合わせを治す装置」ではありません。あくまで筋の過活動を抑制するための一時的な補助装置です。この点を患者に説明しておかないと、「スプリントで咬み合わせが治る」という誤解を生み、治療後の不満クレームにつながります。
説明と同意が条件です。
スプリント療法の効果が乏しい場合や、痛みが慢性化している場合は、ペインクリニックや口腔顔面痛の専門外来への紹介も選択肢に入れてください。歯科単独で抱え込まずに多職種連携を取ることが、患者の治療アウトカム向上につながります。
トリガーポイント注射(TPI:Trigger Point Injection)は、活性トリガーポイントに対して直接アプローチする手技で、即効性の高さが特徴です。注射薬としては生理食塩水・局所麻酔薬(リドカイン等)・ボツリヌストキシン(ボトックス)が使用されます。
歯科での局所麻酔技術を持つ歯科医にとって、TrP注射は解剖学的知識を活かせる領域です。咬筋・側頭筋へのボツリヌストキシン注射は、ブラキシズムや咬筋肥大を伴う筋筋膜痛に対して有効性が示されており、1回の注射で3〜6ヶ月程度の効果持続が期待できます。
注射後に一時的な筋力低下・咀嚼困難が生じる可能性があるため、患者への十分な事前説明が必要です。これは必須です。
なお、TrP注射を歯科で実施する場合は、各医療機関の診療範囲・保険請求の可否について確認が必要です。現時点では保険診療上のグレーゾーンが存在するため、自費診療として位置づけているクリニックが多い状況です。
日本口腔顔面痛学会:口腔顔面痛の診断・治療ガイドラインの参照元として有用です
これは盲点になりやすい視点です。顔面の筋筋膜痛が慢性化するケースでは、心理社会的要因(ストレス・不安・抑うつ・睡眠障害)が発症・維持に大きく関与していることが、複数の研究で示されています。
DC/TMDのAxis IIは、まさにこの心理社会的側面を評価するための診断軸です。PHQ-9(うつ病スクリーニング)やGAD-7(不安スクリーニング)のスコアが高い患者は、疼痛の慢性化リスクが高く、歯科的処置だけでは改善しにくい傾向があります。
実際に以下のような患者像が慢性化しやすいとされています。
こうした患者に対しては、歯科処置を「早く終わらせる」ことよりも、認知行動療法(CBT)や心療内科・精神科との連携を検討することが長期的な患者利益につながります。
結論は多職種連携が原則です。
痛みの破局化(Pain Catastrophizing)が起きている患者には、「痛みは必ず解決できる」という過剰な保証を与えることが逆効果になる場合があります。「痛みと上手につきあいながら生活の質を上げる」という目標設定に切り替えることが、慢性疼痛管理の現代的アプローチです。
歯科従事者としてこの視点を持っておくことは、患者対応の質を大きく左右します。診療室での短い問診でも、「最近ストレスはありますか?」「眠れていますか?」の一言を加えるだけで、慢性化リスクの高い患者を早期に拾い上げることができます。
Mindsガイドラインライブラリ:慢性疼痛治療ガイドラインの参照に活用できます