舌下動脈は約30〜40%の確率で欠如しており、「必ずある」と思っていると手術計画が危険になります。
歯科情報
舌動脈(lingual artery)は、外頸動脈の前壁から分岐する動脈です。具体的には、上甲状腺動脈のすぐ上方、顔面動脈との間で分岐するのが典型的な走行とされています。ただし、顔面動脈と共通幹をなして分岐するケースも存在します。これは、すべての患者で同じ位置に同じ形で存在するとは限らないことを示しています。
分岐した舌動脈は、まず上内側方向へ向かい、舌骨大角に近づきます。その後、下前方へカーブを描いてループを形成します。ここで舌下神経と交差することが特徴的で、この交差はランドマークとして記憶しておくべき点です。続いて顎二腹筋後腹・茎突舌骨筋の下をくぐり、前方へ水平に走行します。
重要なのは次のポイントです。舌動脈は舌骨舌筋の内側を通って前進し、舌内部へと進入します。舌骨舌筋は厚みが1cm程度ある筋肉で、この「内側を通る」という位置関係が、手術時の剖出難易度と直接関係します。舌骨舌筋の外側からは見えにくい走行です。
舌動脈は舌骨舌筋を抜けたあと、ほぼ垂直に上昇して舌の下面に入り、舌深動脈(profunda linguae)として舌尖に向かいます。この経路は「外頸動脈→舌骨大角付近でループ→舌骨舌筋の内側→舌深動脈として舌尖へ」という流れで覚えると整理しやすいです。
分岐経路をまとめると以下のとおりです。
舌根部に分布する動脈は舌動脈単独ではありません。顔面動脈の扁桃枝や、上行咽頭動脈の扁桃枝も舌根部に分布します。つまり舌動脈は「舌尖方向に強く」、舌根部はほかの枝との共同栄養になっています。これが基本です。
参考リンク(舌動脈の解剖学的基礎情報)。
舌動脈 - Wikipedia(外頸動脈からの分岐・走行・各分枝のまとめ)
舌動脈の走行で、歯科臨床において特に重要なのが舌下動脈の挙動です。舌下動脈は舌動脈の終枝の一つで、第二小臼歯付近(下顎体の顎舌骨筋線付近)で舌動脈から分岐します。分岐後はオトガイ舌筋と舌下腺の間を前方へ走行し、舌下部・舌下腺に分布します。
ここで多くの臨床家が見落としがちな事実があります。舌下動脈は約30〜40%の確率で欠如します。教科書の図を何度も見ていると「必ず存在する」と思い込みやすいですが、実際は欠如している患者が3〜4割います。
舌下動脈が欠如している場合、舌下隙への血液供給はオトガイ下動脈が代行します。オトガイ下動脈は顔面動脈の枝で、顎舌骨筋の下部(顎下隙)を前方へ走行し、顎舌骨筋を貫通あるいは後縁から迂回して舌下隙に進入します。この「貫通か、迂回か」という走行の違いが、インプラント手術時のリスク評価に直接影響します。
新潟大学の勝見らの解剖学的研究によると、口底部の動脈走行パターンは以下の4型に分類されます。
つまり、Ⅱ〜Ⅳ型を合計すると約37%の症例で、標準的な走行とは異なるパターンが存在することになります。これは10人に3〜4人の割合であり、決して稀なケースではありません。
さらに注意すべき点があります。Ⅱ〜Ⅳ型では、オトガイ下動脈が舌下腺と下顎骨の間を走行する確率が55%に上ります。これはⅠ型の8.8%と比べて格段に高く、舌側皮質骨穿孔時の大量出血リスクが飛躍的に高まることを意味します。走行バリエーションを把握していないと危険です。
加えて、徳島大学の研究では舌下動脈の走行経路そのものにも解剖学的分類が存在することが示されており、舌下動脈が舌骨舌筋の外側を走行し、舌深動脈との間に交通枝を持つバリエーションも報告されています。走行が1パターンではないことを前提に臨床にあたることが求められます。
参考リンク(口底部動脈走行バリエーションの研究データ)。
インプラント手術における口底部動脈走行の予測(科研費報告書・新潟大学)
舌動脈の走行を理解する実用的な目的の一つが、下顎インプラント手術時の出血事故回避です。国内でもインプラント手術時の口底部大量出血による死亡事故が実際に起きており、大きな社会問題となりました。これは「知らなかったでは済まない」リスクです。
下顎へのインプラント埋入時に舌側皮質骨を穿孔すると、舌下隙を走行する舌下動脈またはオトガイ下動脈を損傷する危険があります。これらの動脈は比較的径が太く、血流量も多いため止血が困難です。また、損傷後の出血が舌下隙に血腫を形成し、血腫が気道を圧迫して窒息を引き起こします。外見上の止血で安心できない点が特徴です。
血管損傷の危険がある部位は、切歯から第一大臼歯(1番〜6番)の範囲です。第二・第三大臼歯部(7番・8番)では危険性は低いとされていますが、舌側のアンダーカットは下顎臼歯部にも存在するため過信は禁物です。前歯部は特に注意が必要という原則は変わりません。
無歯顎症例では、さらに注意が必要です。歯を喪失すると下顎骨の歯槽部が吸収し、基底部は舌動脈から分岐した舌下動脈が下顎骨に沿うようなかたちで走行している可能性があります。有歯顎時と比べて骨のボリュームが大幅に減少した無歯顎症例では、インプラント埋入部位のすぐ近傍に舌下動脈が走行している状況を念頭に置く必要があります。
| リスク部位 | 主な損傷血管 | リスクの程度 |
|---|---|---|
| 下顎前歯〜第一大臼歯(舌側) | 舌下動脈・オトガイ下動脈 | 高い |
| 無歯顎・高度骨吸収症例 | 舌下動脈(骨基底部近傍) | 非常に高い |
| 下顎第二・第三大臼歯 | 該当血管との近接少ない | 比較的低い |
こうした出血リスクを術前に評価するために、CBCT(コーンビームCT)による精密な術前画像診断が不可欠です。ただし、CBCTの一般的な造影では末梢血管までの完全な描写が困難な場合もあります。術前には舌側骨形態・アンダーカットの有無・骨厚の計測を徹底し、手術時は舌側穿孔が起きていないか常に確認しながらドリリングを進めることが基本原則です。
参考リンク(インプラント手術時の局所解剖と血管走行の詳細)。
舌動脈の走行を学ぶ際、周囲の神経との位置関係が混乱しやすいポイントです。整理しておくことで、局所麻酔時や外科処置時の解剖学的イメージが格段に明確になります。
まず、舌動脈と舌下神経の関係です。舌動脈がループを形成する部位で、舌下神経と交差します。舌下神経は舌の随意運動を支配する神経で、この交差部位は解剖学的ランドマークとして重要です。交差のあと、舌動脈は舌骨舌筋の内側へ入りますが、舌下神経はオトガイ舌筋と下縦舌筋の間を走行して舌筋に分布します。
次に舌神経との関係です。舌神経は下顎神経(三叉神経第3枝)から分岐し、舌前2/3の知覚と味覚(鼓索神経を受け入れ後)を担います。舌神経はレトロモラーパッド付近で術野に接近しながら前走し、顎舌骨筋上面の舌下隙でワルトン管(顎下腺管)の下方を通り、舌前2/3の粘膜に分布します。智歯抜去の遠心切開時に注意が必要なことはよく知られていますが、無歯顎では舌骨吸収に伴い舌神経の経路がより術野に近接することも見落とせません。
舌動脈・舌神経・舌下神経の位置関係を整理すると、下縦舌筋とオトガイ舌筋の間を内側から「舌下神経・舌動脈・舌神経」の順に並んで走行しています。「中央から外側に向かって神経・動脈・神経」という並びは試験対策にも臨床にも役立つ知識です。これだけ覚えておけばOKです。
また、舌動脈と舌下腺の関係も重要です。舌下動脈は舌下腺に血液を供給しており、口腔底手術時に舌下腺を操作する場合は舌下動脈の走行を意識する必要があります。舌下腺は口底粘膜の直下に位置する小さな腺(長さ約3cm程度)で、舌下ヒダとして口腔底に開口孔を持ちます。舌下腺を除去すると、その深層に舌下動脈や舌神経が露出します。手術の際の剖出順序として理解しておくと安全です。
参考リンク(舌の神経・動脈の走行関係の総合解説)。
ヒト舌筋の舌内走行と神経支配(日本ディサースリア臨床研究会・解剖学論文)
多くの解剖学の教科書では「舌動脈は外頸動脈の前壁から分岐し、舌骨舌筋の内側を走行する」と図解されています。しかし、実際の臨床標本や解剖実習で観察すると、教科書の図とは異なる走行パターンに出会うことがあります。これは異常ではなく、正常変異の範囲内です。
一つ目の視点は「日本人の顎骨形態と走行への影響」です。東京歯科大学の阿部らの研究によると、典型的なモンゴロイド(日本人)の顎骨は、コーカソイド(欧米人)と比較して下顎体の幅が広く肥厚しているという特徴があります。歯列弓は双曲線形で、下顎骨の内側(舌側)のアンダーカットが顕著です。このため、無歯顎の日本人患者では、アンダーカット内に舌下動脈が沿うように走行している可能性が欧米人より高い傾向があります。欧米人向けの解剖書の走行図を日本人に当てはめると、実際の術野とずれることがあります。意外ですね。
二つ目の視点は、舌動脈と顔面動脈の「共通幹変異」の臨床的意味です。舌動脈は通常、独立した起始をもちますが、一部では顔面動脈と共通幹をつくって外頸動脈から分岐します。この変異が存在する場合、例えば顔面動脈への処置(顎下腺手術など)で顔面動脈に操作が加わると、舌動脈への血流にも影響が出る可能性があります。外科処置前の血管走行把握は、想定よりも広い範囲を念頭に置く必要があります。これは使えそうです。
三つ目の視点は「口底部血管と静脈走行の相関は低い」という点です。術前に造影CT(一般的な静脈性造影)を撮影したとしても、末梢の口底部動脈の走行を正確に特定することは現状では難しいです。静脈から動脈走行を推定しようとしても、新潟大学の研究で示されたように「静脈と動脈の相関性は低い」という結果が出ています。つまり「CTで静脈が確認できるから大丈夫」という推論は成立しません。術前評価の限界を知ることが、安全なインプラント手術への第一歩です。
| よくある思い込み | 実際のエビデンス |
|---|---|
| 舌下動脈は必ず存在する | 約30〜40%で欠如するケースがある |
| 走行パターンは1種類 | 4つのパターンに分類される |
| 欧米の解剖書がそのまま適用できる | 日本人は顎骨形態の違いで走行位置が異なる可能性 |
| CT静脈造影で動脈走行を推定できる | 静脈と動脈の相関性は低く、特定は困難 |
こうした臨床視点を組み合わせると、術前に「この患者さんの走行パターンはどれに当たるか」を意識するだけで、安全性のレベルが格段に上がります。標準的な解剖知識を「疑う」ことから安全な手術は始まります。
参考リンク(インプラント手術時のリスクマネジメントと解剖の基礎)。
口腔インプラント治療指針2024(日本口腔インプラント学会・公式ガイドライン)