96%以上の歯科衛生士がヒヤリハットを経験している現状で、リスクマネジメントの組織化が遅れると医療訴訟リスクが3倍に高まります。
リスクマネジメントの最初の過程であるリスク特定は、歯科医療現場に潜むあらゆる危険要因を洗い出す作業です。静岡県立大学短期大学部の調査によると、歯科医療従事者の96%以上がヒヤリハット体験を持ち、そのうち50%以上が4回以上経験していることが明らかになっています。これほど高い割合で発生しているにもかかわらず、多くの歯科医院では組織的な情報収集体制が整っていないのが実情です。
リスクの特定が遅れると問題が深刻化します。医療事故情報収集等事業の報告によれば、歯科診療における部位取り違え事例は年間で数十件報告されており、特に矯正治療に関連する誤抜歯や過剰埋伏歯の抜歯時の取り違えが多発しています。こうした事例の多くは、事前のリスク特定が不十分だったことに起因しているのです。
具体的なリスク特定の方法として、まずヒヤリハット報告制度の確立が必要です。報告書は匿名性を保ち、人事考課に影響しない仕組みにすることが重要です。
つまり報告しやすい環境が前提です。
日本病院会の調査では、1病院あたり年間平均112件の医療事故やミスが報告されていますが、歯科診療所ではこの数字を下回る施設が大半です。報告文化が根付いていないことが数字に表れています。
リスク特定の範囲は診療行為だけに限りません。患者情報の誤管理、医療機器の不具合、院内感染の可能性、スタッフ間のコミュニケーション不足なども対象です。厚生労働省のリスクマネジメントマニュアル作成指針では、各診療科・各部署単位にリスクマネージャーを配置し、組織全体でリスクを把握する体制を推奨しています。
ヒヤリハット報告を集めるだけでは不十分です。患者との会話から得られる情報、満足度調査の結果、スタッフからの提案なども重要なリスク特定の情報源になります。多角的な視点でリスクを洗い出すことが、この過程での成功の鍵です。
特定したリスクを分析・評価する過程では、発生確率と影響度の2つの軸でリスクの大きさを算定します。この段階が不十分だと、限られた医療資源を適切に配分できません。
リスク分析では、各リスクについて「どの程度の頻度で発生するのか」「発生した場合の損害はどれほどか」を定量的に評価します。発生確率はヒヤリハット報告の件数や過去の事故事例から推測し、影響度は患者への健康被害、医療訴訟の可能性、医院の評判への影響などを総合的に判断するのです。一般的にはリスクマトリックスと呼ばれる表を用いて、リスクを「高」「中」「低」に分類します。
評価の結果は対応の優先順位に直結します。医療安全情報No.91では、歯科における抜歯部位の取り違え事例が7件報告されていますが、このような重大な医療事故につながるリスクは最優先で対応すべきです。一方で、発生頻度は高いが影響度が小さいリスクは、システム改善によって効率的に低減できる可能性があります。
数字で判断できない要素もあります。患者の不安感、スタッフの心理的負担、地域での医院の信頼性なども評価に含めるべきです。どういうことでしょうか?定量評価だけでは捉えきれない「質的リスク」の存在を認識し、経験豊富なスタッフの意見を取り入れながら総合的に判断することが求められます。
優先順位を決める際は、歯科医療特有のリスクに注意が必要です。訪問歯科診療における全身疾患を持つ患者のリスク管理、院内感染予防対策、医療機器の誤作動など、歯科診療に特化した評価基準を設定します。静岡県立大学の調査では、リスク回避のための必須条件の第1位に「危機管理意識の徹底」が挙げられており、評価過程での意識向上が重要であることがわかります。
分析・評価の結果は全スタッフで共有します。定期的な勉強会やカンファレンスで、なぜこのリスクが優先されるのか、どのような影響が予想されるのかを議論することで、組織全体のリスク感度が高まります。この共有プロセスが次の対応段階への橋渡しになるのです。
リスク対応には「回避」「低減」「移転」「受容」の4つの基本戦略があります。評価したリスクの特性に応じて、最も効果的な対応方法を選択する必要があります。
回避とは、リスクを発生させる活動そのものを中止することです。例えば、全身状態が不安定な患者に対して侵襲性の高い処置を避け、より安全な治療法に変更するケースが該当します。発生確率が高く影響度も大きいリスクに対しては、回避が最も確実な対策になります。
低減は、リスクの発生確率や影響度を下げる取り組みです。歯科医療現場では最も多く採用される戦略です。具体例として、抜歯部位の取り違えを防ぐため、術前に患者本人と共に口腔内写真を確認する、治療部位にマーキングする、複数のスタッフでダブルチェックするなどの手順を導入します。医療安全情報の分析によると、部位取り違え事例の多くは確認不足とコミュニケーション不足が原因であり、こうした対策で大幅にリスクを低減できます。
移転は、リスクを第三者に転嫁する方法です。歯科診療では、医療賠償責任保険への加入が代表的な移転策です。万が一医療事故が発生した場合の経済的損失を保険でカバーすることで、医院経営への影響を最小限に抑えます。また、専門性の高い治療を専門医に紹介することも、技術的なリスクを移転する手段になります。
受容は、リスクの影響が小さく対策コストが見合わない場合に、そのリスクを許容範囲として認める判断です。ただし、歯科医療では患者の健康に直結するため、受容を選択できるリスクは限定的です。受容する場合でも、リスクを継続的にモニタリングし、状況が変化すれば対応を見直す体制が必要です。
対応策の実施には具体的な手順書が欠かせません。厚生労働省のマニュアル作成指針では、作業手順を数字で示し、「①患者の氏名を通る声で呼んで本人確認する」「②診療台の安全を確認してから調整する」のように、誰が読んでも同じ行動ができる記述を推奨しています。マニュアルは実務に即した内容にすることが基本です。
実施後の効果測定も重要です。対策を導入してもヒヤリハット報告が減らない場合、対策そのものに問題がある可能性があります。PDCAサイクルを回し、実効性を検証しながら改善を続ける姿勢が求められます。
リスクマネジメントの過程を機能させるには、インシデント情報を組織内で迅速に共有する体制が不可欠です。報告制度の設計次第で、収集できる情報の質と量が大きく変わります。
インシデント報告書のフォーマットは簡潔にします。発生日時、場所、関与した職種、事象の内容、患者への影響度、発見の経緯、対応内容などの必須項目を設定し、記入者の負担を軽減することで報告率が向上します。大阪府歯科医師会の医療安全管理体制確保に関するQ&A集では、インシデント発生時に最も事実を知る職員が速やかにレポートを記載し、始まりから発見・初期対応までの事実を整理することを推奨しています。
報告された情報は組織的に分析されます。リスクマネージャーや医療安全委員会が中心となり、類似事例の傾向、根本原因、再発防止策などを検討するのです。昭和大学歯科病院の報告では、平成19年度から22年度までに1102件のインシデント報告が提出されており、継続的なデータ蓄積が組織の安全文化を育てることが示されています。
情報共有の方法は多様です。定期的なカンファレンスでの事例検討、院内掲示板での注意喚起、電子カルテシステムへのアラート機能追加など、スタッフ全員が情報にアクセスできる仕組みを整えます。月越歯科医院の医療安全対策では、インシデントの早期発見と報告体制を整え、潜在的なリスクや問題点を迅速に把握して対処することを重視しています。
報告文化を定着させるためには、報告者を責めない姿勢が重要です。静岡県立大学の研究では、ヒヤリハット報告を人事考課に反映させないこと、上層部と現場の風通しの良い環境を実現することが肝要だと指摘しています。
つまり心理的安全性が前提です。
報告しても不利益を受けないという信頼関係があってこそ、本音の情報が集まります。
外部機関との連携も視野に入れます。日本医療機能評価機構の医療事故情報収集等事業に参加し、全国の事例から学ぶことで、自院だけでは気づけないリスクを発見できます。医療安全情報として定期的に提供される情報を院内で共有し、同様の事故を未然に防ぐ取り組みが効果的です。
医療事故情報収集等事業(日本医療機能評価機構)では、歯科を含む医療事故の分析結果や再発防止策が公開されており、リスク管理の参考情報として活用できます。
リスクマネジメントは一度構築して終わりではなく、継続的に見直しと改善を繰り返すプロセスです。PDCAサイクルを回すことで、組織の安全管理レベルが段階的に向上します。
Plan(計画)では、リスクアセスメントの結果に基づいて年間の安全対策計画を策定します。優先度の高いリスクから順に、具体的な対策、実施期限、担当者、必要な資源を明確にします。Do(実行)では、計画に沿って対策を実施し、スタッフ教育や設備導入などを進めていきます。静岡県立大学の調査では、定期的なマニュアル見直しが推奨されており、1年後には新たな医療技術や未知の疾病の出現により内容が古くなる可能性があるため、バージョンアップを前提とすることが重要です。
Check(評価)では、実施した対策の効果を検証します。ヒヤリハット報告件数の推移、患者満足度調査の結果、スタッフアンケートなどの定量・定性データを収集し、目標達成度を測定するのです。評価の際には、意図した効果が得られているか、予期しない副作用が生じていないかを確認します。効果が出ていない場合は原因を分析し、対策の修正が必要です。
Act(改善)では、評価結果を踏まえて次のサイクルに向けた改善策を検討します。効果的だった対策は標準化して組織全体に展開し、不十分だった対策は見直しや代替案の検討を行います。改善提案はスタッフからのボトムアップで集めることも有効です。
厳しいところですね。
PDCAサイクルを回す頻度は、リスクの性質によって調整します。重大なリスクについては月次や四半期ごとに見直し、一般的なリスクは年次で評価するなど、メリハリをつけた運用が現実的です。地域における高齢者の口腔・食支援の取組推進ハンドブックでも、切れ目のない医療・介護提供体制を構築するため、取組内容の充実を図りつつPDCAサイクルを活用することが推奨されています。
マニュアルの見直しもPDCAの一環です。実務に照らして使用してみると、内容が実態を反映していない箇所が見つかることがあります。どんどん書き込める余白を設け、気づいた点をその場でメモする習慣をつけることで、次回改訂時に実践的なマニュアルへと進化します。静岡県立大学の研究では、マニュアルを「聖書」のように普遍的な文書と捉えず、常に疑問を持ち質問で明らかにしていく姿勢が求められると指摘しています。
継続的改善の文化を組織に根付かせるには、トップのコミットメントが欠かせません。院長やリーダーがリスクマネジメントの重要性を繰り返し発信し、安全への投資を惜しまない姿勢を示すことで、スタッフの意識が変わります。2040年を見据えた歯科ビジョンでは、患者の口腔健康管理を長期継続的に行うことが謳われており、そのためには安定した安全管理体制の構築が前提となるのです。