手術が成功していても、説明不足だけで350万円の賠償を命じられることがあります。
令和3年の最高裁統計によれば、医療訴訟全体に占める歯科の割合は12.2%で、内科(29.0%)に次いで第2位です。歯科の中でも、インプラント関連事件は特に目立ちます。平成28年のデータでは、歯科の新受事件34件のうち14件(41.2%)がインプラント手術に関するものでした。つまり、歯科訴訟の4割以上がインプラントに集中しているということです。
これほど訴訟リスクが高い背景には、インプラント治療の特殊性があります。順天堂大学らの研究チームが2023年に発表した論文(日病総診誌)では、1993〜2022年のインプラント関連裁判例20件を網羅的に分析しました。その結果、患者側の請求が一部でも認められた(認容判決)のは12件、つまり60%でした。歯科医師側が敗訴するリスクは、決して低くありません。
インプラント治療をめぐる紛争には、治療の完了後に長期間が経過してから問題化するという特殊なパターンがあります。日本口腔インプラント学会の木村正医師らの研究(2023年)によれば、「インプラント治療は補綴処置が完了し良好に経過した後でも、メインテナンス期に不満やトラブルが発生することが多い」と指摘されています。
訴訟の争点は多岐にわたりますが、主なものは下記のとおりです。
| 争点 | 事件数(20件中) | 責任認定数 |
|---|---|---|
| 説明義務 | 12件(60%) | 4件 |
| 手術手技 | 12件(60%) | 7件 |
| 術後管理 | 8件(40%) | 2件 |
| 手術適応・手術時期 | 4件(20%) | 3件 |
| 術前検査 | 4件(20%) | 1件 |
注目すべきは「手術適応・手術時期」です。件数こそ少ないものの、争われた4件のうち3件(75%)で医療機関側の責任が認定されており、認定率が最も高い争点です。これは意外ですね。
また同論文では、訴訟での請求額の平均は1,778万円、認容額の平均は474万円でした。最高認容額は3,143万円にのぼっています。歯科医師賠償責任保険に加入していても、保険でカバーできる上限を超えるケースも存在する規模感です。
訴訟に発展しやすいインプラント関連のトラブルは、大きく3つのカテゴリに整理できます。
① 手技ミス(神経損傷・上顎洞穿孔など)
最も典型的な訴訟原因は、フィクスチャーの埋入深度・角度のミスによる下歯槽神経損傷です。東京地裁平成28年9月8日判決では、右下8番フィクスチャーを過度に深く埋入した結果、患者にオトガイ神経麻痺の後遺障害が残りました。裁判所はミスと後遺障害の因果関係を認定し、346万円の賠償を命じています。手技ミスが争点になった12件のうち7件で責任が認定されています。痛いですね。
もう一つの頻出パターンが上顎洞への穿孔です。サイナスリフトを抜歯後わずか1カ月半で実施したことに過失が認定された事例(東京地裁平成25年判決)も存在します。「十分な待機期間を置いた」という認識が、実は医療水準に達していない、という判断が下されることがあります。
② 説明義務違反(インフォームドコンセント不足)
前述の統計で説明義務が20件中12件(60%)で争点になっていたことは、非常に示唆的です。つまり説明義務が最も問題になりやすい争点です。しかもインプラント事例においては、一般の医療紛争と比べても説明義務違反が認められやすいとされています。
具体的に説明義務違反が認定された内容は多岐にわたります。
- 神経損傷・麻痺のリスクの説明漏れ
- 上顎洞炎などの合併症の危険性未説明
- 他の選択肢(代替治療法)の提示がなかった
- 治療本数・術式の変更について十分な説明がなかった
特に自由診療であるインプラントは、歯科医師の説明義務の範囲が広く、かつ厳格に解釈される傾向があります。これは、生命への緊急性が低く時間的余裕があること、治療費が高額で患者の期待値が高いこと、抜歯などの不可逆的処置を伴うことなど、歯科診療固有の特性が背景にあります。
③ カルテ・証拠の不備
訴訟において「説明した」「同意を得た」と主張しても、証拠がなければ裁判所に認めてもらえません。東京地裁のある判決では、歯科医院がインプラント後に患者からカルテ開示を求められたにもかかわらずこれを拒否したことについて、診療契約に伴う付随義務違反として損害賠償が認められました。記録の不備と開示拒否は、それ自体がリスク要因です。
参考:歯科裁判事例【10】(歯科法律問題 弁護士相談窓口)|インプラント治療の診療契約の法的性質・返金額算定の判例を詳しく解説
「インプラントが失敗したなら、払った治療費を全額返せ」という主張は患者側から頻繁に出ます。しかし、法的にはそう単純ではありません。これが条件です。
東京地裁平成28年9月8日の判決は、この点を明確に整理しています。裁判所はインプラント治療の診療契約の法的性質を「準委任」と認定しました。請負契約であれば成果物が完成して初めて報酬が発生しますが、準委任であれば治療行為を行うこと自体が義務の履行です。
この判断が実務上何を意味するかというと、「フィクスチャーの埋入まで完了していれば、その工程分の報酬は受け取れる」ということです。同判決では、インプラント治療の工程をフィクスチャー埋入、アバットメント固定、上部構造装着に分けたうえで、フィクスチャー埋入部分の割合を全工程の「7分の4」と算定しました。
ただし、例外があります。フィクスチャーを埋入した直後に神経損傷で即日抜去した右下8番については、「埋入が完了したとはいえない」として、その部分の報酬受け取りは認められませんでした。過失が立証された場合は治療費が損害として認定され、事実上の全額返還と同じ結果になることがあります。
さらに注意が必要なのは、10年保証などの保証期間がついていても、診療契約の法的性質は「準委任」のままであるという点です。患者側が「保証がついているから請負だ」と主張しても、裁判所はこの主張を退けています。つまり「保証は付けているから大丈夫」という考え方は通用しません。
| ケース | 法的性質 | 返金の範囲 |
|---|---|---|
| 工程途中で中断(患者都合) | 準委任(民法648条3項) | 履行割合に応じた返金 |
| 手技ミスで即日抜去 | 準委任でも埋入完了と認定されず | 該当部分の報酬を受け取れない |
| 過失が認定された場合 | 治療費が損害として算定 | 事実上の返金と同等 |
| 10年保証あり | それでも準委任 | 保証の有無は法的性質に影響しない |
訴訟リスクを下げるための実務対策は、大きく「記録」「説明」「体制」の3つに整理できます。
📝 記録:カルテへの詳細な記録
裁判でのカルテの信用性は非常に高く、「カルテに書いてあることは、その時点での事実認識が反映されている」とみなされます。カルテ記録が最大の防衛ツールです。
記録しておくべき項目として特に重要なのは次のとおりです。
- 説明した内容(治療法・リスク・代替案)
- 患者の返答・反応・質問内容
- 同意を得た日時と確認方法
- 治療計画の変更とその理由
- 術後に患者が訴えた症状と対応内容
カルテへの記録は、その都度リアルタイムで行うことが重要です。後から追記・修正すると改ざん疑惑を招くリスクがあります。
🗣️ 説明:インフォームドコンセントの質を高める
説明義務は形式を整えるだけでは不十分です。患者が「自分で決定できる」水準の情報提供が求められます。インプラントで特に説明必須の項目は下記のとおりです。
- 下歯槽神経損傷・麻痺のリスク
- 上顎洞への影響(穿孔・上顎洞炎)
- 骨結合が得られない可能性
- インプラント周囲炎のリスク
- 代替治療法(ブリッジ・入れ歯)との比較・利害得失
- 治療費・保証の内容と限界
同意書を取得することも有効ですが、それだけでは不十分です。同意書にサインした後でも、口頭での追加質問への回答内容をカルテに記録しておくことが、より確実な証拠になります。
🏥 体制:初期対応と相談窓口の整備
患者からクレームを受けた場合、最初の対応が訴訟化の分かれ目になることがあります。特に注意が必要なのは「その場をおさめようとした発言」です。東京高裁平成31年1月の判決では、歯科医師が患者側の抗議を受けて思わず自認するような発言をした点が争点になりましたが、控訴審では「場をおさめるための発言であり、自認ではない」と判断されました。しかし、初審では敗訴しています。
患者からのクレームを受けたら、感情的な対応や安易な謝罪は禁物です。まず事実関係を確認し、弁護士や歯科医師会に相談することが原則です。
参考:歯科は訴えられることが多い?判例から学ぶ説明の重要性(ORTC・2024年)|説明義務違反の裁判例と具体的な予防策を解説した実務向けコラム
多くの歯科医師が見落としがちな視点があります。「自分はしっかり治療しているから大丈夫」という感覚です。しかし、インプラント訴訟の構造は、そうした自信とは別の場所で進行することがあります。
大阪口腔インプラント研究会が2021年に行った340名(回答132名)のアンケートによれば、歯科治療全般における神経麻痺の経験率は85.2%にのぼります。インプラント治療時に限った麻痺の発生は15.9%でした。多くの歯科医師がこのような合併症を経験しているわけですが、問題はその後の「対応と記録」にあります。
調査では、下歯槽神経麻痺のリスクを「術当日に説明している」と回答した歯科医師が15.9%存在しました。さらに、説明後に「書面で同意を取っているかは不明」という回答も多数見られています。つまり、説明はしているつもりでも証拠がない、という状態が現場では珍しくありません。
また、インプラント治療特有の問題として、「メインテナンス期に紛争が起きる」という時間的ズレがあります。治療から数年後に患者が新たな不満を感じたとき、それまでのすべての経過が訴訟対象になりえます。経過が良好だったインプラントさえも、後から問題のある治療として主張されることがある、ということです。これは意外ですね。
そうした長期リスクへの備えとして有効なのが、治療指針(ガイドライン)への準拠と、診療録への記録です。前述の論文(淺野ら、2025年)では、2015年以降の裁判例4件でガイドラインへの言及があり、そのうち2件でガイドラインを守らなかったことが責任認定の根拠とされています。ガイドラインに沿った治療の記録が、防衛的証拠になります。
歯科医師賠償責任保険は、敗訴確定後の賠償金支払いをカバーする重要な備えです。ほとんどの歯科医師が加入していますが、訴訟対応コスト(弁護士費用、精神的負担、診療休止リスク)は保険だけでは補えません。日常の記録と説明体制の整備こそが、最も実効性の高いリスク管理といえます。

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