総義歯にバランスドオクルージョンを付与すれば、それだけで義歯は安定すると思っているなら、セット後の調整が平均5回以上になるリスクがあります。
バランスドオクルージョン(Balanced Occlusion)とは、咬頭嵌合位だけでなく、前方・側方などの偏心運動の全過程においても、上下顎のすべての歯が同時に接触するような咬合様式のことを指します。フル・バランスド・オクルージョン(Full Balanced Occlusion)や「両側性平衡咬合(バイラテラルバランスドオクルージョン)」とも呼ばれ、補綴学の中でも最も古い概念のひとつです。
この概念の起源はボンウィル(Bonwill, 1859)の「側方咬合時における両側性平衡」の理論に端を発し、スピーの彎曲(1894)やモンソンの球面説(1918)を基盤として確立されました。歴史的には、かつて天然歯の理想咬合のひとつとして位置づけられた時代もありました。しかし現代では、「無歯顎(総義歯)に与えるべき咬合」として整理されています。
つまり基本は、総義歯専用の概念です。
なぜ総義歯にバランスドオクルージョンが必要なのか。答えは支持組織にあります。天然歯は歯根膜というクッションによって歯槽窩内に支持され、約100〜200μmの可動量があります。それに対し、総義歯は弾性を持つ軟らかい粘膜(顎堤粘膜)の上に乗っているだけです。咬合力が偏ると義歯が傾いたり浮き上がったりしやすく、それが褥瘡性潰瘍や顎堤吸収の原因となります。
バランスドオクルージョンでは、咀嚼運動中に生じる側方圧やストレスを、作業側・平衡側(非作業側)の両方の歯と左右の顎関節に均等に分散させることで、この義歯の不安定を防ぐと考えられています(Granger, 1962)。特に「クロスアーチバランシングコンタクト(非作業側の咬合接触)」が義歯の離脱を防ぐうえで重要な役割を果たします。
| 咬合様式 | 主な対象 | 偏心時の接触 |
|---|---|---|
| フルバランスドオクルージョン | 総義歯(無歯顎) | 作業側・平衡側ともに接触 |
| リンガライズドオクルージョン | 総義歯(無歯顎) | 上顎舌側咬頭のみ接触 |
| ミューチュアリープロテクテッド | 天然歯列・有歯顎補綴 | 前歯誘導・臼歯離開 |
| グループファンクション | 天然歯・部分床義歯 | 作業側多数歯接触・非作業側離開 |
歯科医院での補綴治療において、症例に応じた咬合様式の選択は治療の長期予後を大きく左右します。これが基本です。
クインテッセンス出版「新編咬合学事典:バランスド・オクルージョン」(定義・歴史・批判点の詳細を解説)
バランスドオクルージョンを正しく理解するためには、「フルバランス」と「リンガライズド」の2種類の接触様式の違いを把握しておく必要があります。日本の臨床現場でもこの2つは混同されがちですが、実際には咬頭嵌合位と偏心位の両方で接触パターンが異なります。
フルバランスドオクルージョン(Fully anatomical cross-tooth cross-arch bilateral balanced occlusion)では、咬頭嵌合位において上下顎の咬頭斜面同士が「面」で接触します。この状態では、偏心運動時に作業側ではクロストゥースバランシングコンタクト(同側の歯列内での接触)と、非作業側ではクロスアーチバランシングコンタクト(反対側の接触)の両方が発生します。まさに「フル」に接触するため「フルバランス」と呼ばれます。
一方、リンガライズドオクルージョンは、咬頭嵌合位において上顎の舌側咬頭頂が下顎の窩底に「点」で接触するのが特徴です。これは解剖学的人工歯(半解剖学的人工歯)の設計とも関連し、偏心時には上顎舌側咬頭のみがバランシングコンタクトを担います。つまり、クロスアーチバランシングコンタクトのみを持ちます。
咬耗のリスクという点では大きな違いがあります。
フルバランスでは咬合面積が大きく、偏心運動のたびに全歯が滑走接触するため、人工歯の咬耗が起きやすい傾向があります。一方、リンガライズドは点接触が中心のため、咬耗の発生が抑えられ、咬合調整もしやすいとされています。日本補綴歯科学会誌に掲載された研究(70名以上を対象)でも、両者を長期比較した結果が報告されています。
咬合器上での付与に関しては、全調節性咬合器を用いてフルバランスを完璧に再現することは技術的に非常に困難です。下顎の境界運動と完全に調和させようとすると製作難度が著しく上がります。Granger自身も「真のバランスは機能運動の範囲内で与え、極端な偏心運動における歯の接触消失はやむをえない」と述べています(1962)。これは使えそうです。
半調節性咬合器を用いる場合は、フェイスボウトランスファーによって生体の開閉口軸と咬合器上の開閉口軸を近似させることが前提となります。
付与方法の選択に悩む場面では、日本補綴歯科学会が策定した「有床義歯補綴診療のガイドライン」が参考になります。ガイドラインには咬合様式ごとのエビデンスレベルも記載されており、症例選択の根拠として活用できます。
日本補綴歯科学会「有床義歯補綴診療のガイドライン」(咬合様式の選択根拠・エビデンスレベルを確認できる公式PDF)
「総義歯でうまくいったのだから、有歯顎のフルマウスリコンストラクションにも使えるはず」という発想は、1960年代の歯科治療の現場で実際に広まりました。McCollum(1955)はフルマウスリコンストラクションの理想咬合としてバランスドオクルージョンを採用し、その弟子のGrangerが終生これを擁護しました。
しかし結果は芳しくありませんでした。
Stallard と Stuartは、1950年代になってバランスドオクルージョンを与えた症例の「大多数が失敗に終わった」と報告し、見解を転換しています。Lucia(1961)も12年間にわたり自らの症例でこの咬合を検証し、「術後5〜10年は良好でも、その後に不調和が生じた」ことを報告しました。
失敗の原因として最も大きかったのが「過度の咬耗」です。
偏心運動のたびに全歯が接触・滑走するバランスドオクルージョンでは、天然歯や人工クラウンの咬合面が継続的に摩耗します。一度でも咬耗が発生すると、中心位と咬頭嵌合位のずれが生じ、側方運動時に非作業側咬頭干渉が発生します。これがテコの作用を生み出し、顎関節や歯周組織にダメージを与えます。
天然歯の健全歯列でバランスドオクルージョンが自然発生することは、ほとんどありません。稀に観察される天然歯のバランスドオクルージョンは、著しい咬耗の結果として生じたものがほとんどで、それ自体が咬合崩壊のサインとも言えます(クインテッセンス出版「新編咬合学事典」)。
天然歯の非作業側の接触(平衡側接触)については、Schuyler が1963年の論文でこう述べています。「総義歯では必要だが、天然歯列では不要であり、むしろ歯周組織や顎関節に有害に働く。それは病態として現れなくても潜在的に病的要因になる」。
有歯顎患者に与えた場合の問題点をまとめると。
これが原則です。
したがって現代の歯科臨床では、有歯顎や天然歯の修復・補綴においてはミューチュアリー・プロテクテッド・オクルージョン(相互保護咬合)またはグループファンクションを付与するのが標準です。バランスドオクルージョンは「無歯顎に与えるべき咬合」として明確に分離されています。
バランスドオクルージョンを総義歯に正しく付与するうえで、臨床で最も見落とされがちなステップのひとつが「クリニカルリマウント」です。
クリニカルリマウントとは、総義歯の完成後にセット日、粘膜面調整が終わった後でチェックバイトを採取し、チェアサイドで再び完成義歯を半調節性咬合器に装着する工程のことです。これは技工室で行う「ラボリマウント」とは別工程で、口腔内の粘膜変位を考慮した最終的な咬合調整を行うために必要です。
なぜこれが重要なのか、考えてみてください。
総義歯は軟らかい粘膜の上に乗っているため、咬合がわずかにずれていても義歯自体が動いて「見かけ上」かみ合わさったように見えます。この微妙な動きが顎堤の粘膜を繰り返し損傷し、ひどい場合には褥瘡性潰瘍につながります。口腔内ではこのズレを正確に把握することが極めて難しく、咬合器上でのみ的確な調整が可能なのです。
厳しいところですね。
Shigliらによる無作為化比較試験(RCT、30名の無歯顎患者)では、クリニカルリマウント(ラボリマウント+クリニカルリマウント:LCRO群)を実施したグループでは、セット後の調整が全員1回以内で完了しています。一方、リマウントなしで口腔内のみで調整したグループ(OOC群)では、調整回数が有意に増加し、咀嚼時の疼痛や顎堤の疼痛部位数も多かったと報告されています(Shigli et al., 2008)。
この結果を逆に言えば、クリニカルリマウントを行わないと、セット後に平均3〜5回の調整が必要になる可能性が高いということです。これは患者の来院回数増加につながるだけでなく、術者の時間コストも大きくなります。
クリニカルリマウントを行うための前提条件として、フェイスボウトランスファーと半調節性咬合器の使用が不可欠です。生体の顆頭位(開閉口軸)と咬合器の運動軸を近似させないと、リマウント後の咬合調整が正確に行えません。この一手間が最終的な治療精度を大幅に高めます。
バランスドオクルージョンを確実に付与したい場合は、大阪府歯科医師会や各補綴学会のガイドラインにも記載された「①正しい咬合採得 → ②ラボリマウント → ③クリニカルリマウント」の手順が推奨されています。
スギタ研究会「クリニカルリマウント①」(RCT根拠とフェイスボウの必要性をわかりやすく解説)
インプラント補綴(特にオッセオインテグレーテッドインプラントを用いたボーンアンカードフルブリッジ)にバランスドオクルージョンをそのまま適用することには、現代では明確な疑問が提示されています。
インプラントは骨と直接結合しており(オッセオインテグレーション)、咬合力は骨に直接伝わります。天然歯の歯根膜が持つ100〜200μmのクッション機能はなく、過大な側方力がフィクスチャーを倒すリスクがあります。
「適用できれば良いかも」ではなく、適用が不適とされます。
クインテッセンス出版の「咬合学事典(オッセオインテグレーテッド・インプラントの咬合様式)」には次のように記されています。「少なくとも、軟らかい歯槽粘膜の上にのっているだけの、従来の総義歯に適用されるバランスド・オクルージョンのような咬合は不適であることは明らかである」。
インプラントが顎骨に強固に結合している点から考えると、偏心運動中に生じる側方圧(水平荷重)はフィクスチャーへの倒す力(転覆モーメント)として働きます。犬歯に加わる咬合力は第2大臼歯の約1/8と言われており(Guichet, 1970)、臼歯部への不必要な側方荷重は極力避けるべきです。
インプラント補綴では次の考え方が現代的な指針とされています。
インプラント上部構造での咬合設計の実際については、日本口腔インプラント学会が発行する「咬合様式の違いがインプラント治療結果に及ぼす影響」(徳島大学リポジトリ)も参考になります。
「義歯でうまくいったからインプラントにも同じ咬合で」という発想は、支持組織が根本的に異なる以上、患者の長期予後を大きく損なうリスクがあります。これが条件です。
徳島大学リポジトリ「咬合様式の違いがインプラント治療結果に及ぼす影響」(総説・インプラント咬合様式の比較エビデンスを解説)