ユニバーサルプリコーションを正しく実践しても、実は完全な感染対策にはなりません。
ユニバーサルプリコーションは、1985年に米国疾病予防管理センター(CDC)によって提唱された感染予防策です。当時、HIV/AIDSやB型肝炎ウイルス(HBV)による医療従事者の感染事故が深刻な問題となっていました。1980年代初頭からHIV/AIDSが世界的に流行し始め、医療現場での感染リスクに対する懸念が急速に高まったのです。
この概念の核心は、すべての患者の血液と特定の体液を感染性があるものとして扱うという点にあります。つまり血液由来の病原体が医療従事者に伝播する危険性を減らすために考案されたということですね。
ユニバーサルプリコーションの対象となる体液は、血液、精液、膣分泌液、羊水、心嚢液、腹水、胸水、関節滑液、脳脊髄液などに限定されています。これは主に血液を介した感染防止に重点を置いた予防策でした。
歯科医療現場では、歯肉からの出血や抜歯時の血液暴露が日常的に発生します。例えば、スケーリング処置中に歯肉から微量の出血があった場合、その血液は感染源として取り扱う必要があります。一日に20名以上の患者を診療する歯科医院では、血液に接触する機会が極めて多いため、ユニバーサルプリコーションの理解は不可欠でした。
しかし、この概念だけでは唾液や分泌物など、血液以外の感染経路に対する防御が不十分だという課題が残されていたのです。
スタンダードプリコーション(標準予防策)は、1996年にCDCが発表した、ユニバーサルプリコーションをさらに進化させた感染管理対策です。これは標準予防策と呼ばれ、すべての患者に対して普遍的に適用される予防策として確立されました。
最大の違いは対象範囲の拡大です。スタンダードプリコーションでは、汗を除くすべての湿性生体物質が感染の可能性があるものとして扱われます。具体的には、血液、体液、分泌物(喀痰など)、嘔吐物、排泄物、創傷皮膚、粘膜などすべてが対象となります。
汗が例外とされている理由は明確です。汗の成分はほとんどが水分であり、汗から感染源となる病原菌が出ることはほとんどないためです。つまり汗だけは感染源として取り扱わなくてよいということですね。
歯科診療においては、この拡大された対象範囲が特に重要な意味を持ちます。口腔内には唾液、歯肉溝滲出液、血液、粘膜など、複数の湿性生体物質が常に存在しているからです。高速回転器具を使用する際には、これらの物質がエアロゾルとなって診療室内に飛散します。実際、歯科医院では唾液を含む飛沫や空気媒介性飛沫核によるエアロゾル感染の危険性が高いと指摘されています。
スタンダードプリコーションは、患者の感染症の有無に関わらず、すべての人に対して標準的に実施される点も重要です。感染症と判明しているかどうかにかかわらず、すべての患者を対象に予防策を講じるという考え方が基本となっています。
これによって、未知の感染症や無症状の感染者からの感染リスクも低減できるのです。
ユニバーサルプリコーションが提唱された1985年から、スタンダードプリコーションが発表された1996年まで、約11年の歳月が流れています。この期間に感染症に関する知見が大幅に増加し、感染対策の概念も大きく発展しました。
1980年代中期から後期にかけて、HIV/AIDSの感染経路や予防方法に関する研究が急速に進みました。同時に、医療現場では血液以外の体液からも様々な病原体が検出されることが明らかになってきたのです。例えば、結核菌は喀痰から、ノロウイルスは嘔吐物や排泄物から感染する可能性があることが判明しました。
こうした知見の蓄積により、血液と特定の体液のみを対象としたユニバーサルプリコーションでは、すべての感染経路をカバーできないことが明確になりました。
これが原則です。
さらに、1987年にCDCが提唱した生体物質隔離の考え方も統合され、スタンダードプリコーションという新たなガイドラインが誕生しました。生体物質隔離では、すべての湿性生体物質は潜在的に感染性があるとみなす概念が導入されていました。
歯科医療の分野でも、この進化は大きな影響を与えました。歯科治療では、歯を削る際に高速回転器具(タービン)や超音波スケーラーを使用します。これらの器具は水を噴射しながら使用するため、血液だけでなく唾液や削片を含んだエアロゾルが大量に発生するのです。
厚生労働省研究班の調査によると、2016年時点でも使用済みハンドピースを患者ごとに交換・滅菌している医療機関は半数程度にとどまっていました。52%が患者ごとに交換・滅菌と答えた一方で、残りの約半数は十分な感染対策を実施していなかったのです。
このような実態もあり、血液だけでなくすべての湿性生体物質を対象とするスタンダードプリコーションの徹底が求められるようになりました。
歯科医療現場での実践において、ユニバーサルプリコーションとスタンダードプリコーションでは具体的な対応に明確な違いが生じます。この違いを理解することが、適切な感染対策の実施につながります。
ユニバーサルプリコーションの時代には、主に血液暴露への対策が中心でした。抜歯や外科処置など、明らかに出血が予想される処置では厳重な防護を行うものの、一般的な虫歯治療やスケーリングでは対策が不十分なケースも見られました。血液が目に見えない場合、感染リスクを軽視してしまう傾向があったのです。
一方、スタンダードプリコーションでは、すべての処置において標準的な予防策を講じることが求められます。具体的な実践内容には以下のような要素が含まれます。
手指衛生は最も基本的な対策です。患者ごとに、処置の前後に必ず手洗いまたは手指消毒を実施します。グローブを着用していても、グローブに小さな穴が開いていることもあり、手指が目に見えない病原体に汚染される可能性があるのです。グローブの中で発汗して微生物が増えていることもあります。だからグローブを外した後にも必ず手指衛生を実施することが原則です。
個人防護具(PPE)の使用も重要な要素となります。マスク、ゴーグルまたはフェイスシールド、グローブ、ガウンなどを適切に着用します。歯科診療では、高速回転器具や超音波機器の使用により、血液や唾液を含んだエアロゾルが診療者の顔面に飛散するリスクが非常に高いため、目や粘膜を保護することが不可欠です。
グローブは患者ごとに必ず交換します。一人の患者の処置が終わったら、次の患者の処置に移る前に必ず新しいグローブに交換するということですね。これは当たり前のように思えますが、実際には徹底されていない医療機関も存在するのが現状です。
器具の滅菌・消毒も大きな違いをもたらします。歯を削るハンドピース(タービン)は、一日100人の患者が来院する歯科医院であれば、最低でも20本程度の用意が必要とされています。これは一日に数回、器具を滅菌処理する前提での数字です。患者ごとに交換・滅菌を徹底するには、さらに多くの本数と滅菌器、そして人件費が必要となります。
滅菌処理には、クラスB滅菌器と呼ばれる高性能な機器の使用が推奨されます。国際的な滅菌基準では、滅菌処理後に100万個に対して1個だけ微生物の付着が見つかる程度であれば良しとされています。
消毒や除菌とは別の次元の処理レベルです。
診療ユニットや周辺環境の消毒も重要です。患者ごとに、ユニットのハンドル、ライト、テーブルなど、頻繁に触れる部分をアルコールまたは次亜塩素酸ナトリウムで消毒します。エアロゾルが付着している可能性があるすべての表面を対象とするということですね。
感染予防対策にかかるコストも考慮すべき要素です。日本歯科医療管理学会の調査では、患者1人あたりの院内感染対策費用は総計1,127円とされています。これに対し、保険診療での再診料45点と外来環加算4点の合計は490円であり、約637円の差額が生じています。つまり適切な感染対策を実施すると、歯科医院側が持ち出しになる構造なのです。
このような経済的な制約もあり、すべての歯科医院でスタンダードプリコーションが完全に実践されているわけではありません。しかし患者と医療従事者の安全を守るためには、コストをかけてでも適切な感染対策を実施することが倫理的に求められます。
スタンダードプリコーションだけでは防ぎきれない感染経路が存在する場合、追加の予防策が必要となります。これが感染経路別予防策と呼ばれるもので、接触予防策、飛沫予防策、空気予防策の3つに分類されます。
接触予防策は、直接接触または間接接触によって感染が広がる病原体に対する対策です。メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)やノロウイルスなどが該当します。患者専用の器具を使用する、処置後には手袋とガウンを廃棄する、環境表面を徹底的に消毒するなどの対策を追加します。
飛沫予防策は、咳やくしゃみ、会話によって発生する飛沫を介して感染する病原体への対策です。インフルエンザウイルスや新型コロナウイルスなどが含まれます。患者との距離を2メートル以上保つ、サージカルマスクを着用する、可能であれば個室で診療するなどの対策が必要となります。
空気予防策は、空気中を長時間浮遊する飛沫核を介して感染する病原体への対策です。結核菌、麻疹ウイルス、水痘ウイルスなどが該当します。N95マスクの着用、陰圧室での診療、診療室の換気回数の増加などが求められます。
歯科診療では、これらの感染経路すべてにリスクがあります。高速回転器具や超音波スケーラーの使用により、5μm以上の飛沫だけでなく、5μm未満のエアロゾルも大量に発生するのです。エアロゾルは空気中を長時間漂うため、空気予防策に近い対応が必要なケースもあります。
新型コロナウイルス感染症の流行時には、歯科医院は高リスク環境として認識されました。しかし実際には、適切なスタンダードプリコーションと感染経路別予防策を実施することで、歯科医療従事者の感染率は他の職種と比較して特に高くないことが報告されています。
適切な対策が機能しているということですね。
口腔外バキュームの使用は、エアロゾル対策として効果的です。これは診療時に発生する飛沫やエアロゾルを吸引する装置で、診療室内への拡散を大幅に減少させます。通常の口腔内バキュームだけでは不十分な場合に、追加で使用することが推奨されます。
診療前の含嗽(うがい)も重要な対策となります。抗菌性の洗口液で治療前にうがいをすることで、口腔内の微生物量を一時的に減少させることができます。これによって飛沫やエアロゾルを介した感染リスクを低減できるのです。
換気の徹底も忘れてはいけません。診療室の窓を定期的に開けて換気する、空調システムのフィルターを定期的に交換する、可能であれば空気清浄機を設置するなどの対策が有効です。エアロゾルは時間とともに沈降しますが、換気によってより早く除去できます。
スタンダードプリコーションは基盤となる対策であり、感染経路別予防策はそれに追加して実施する対策です。両者を適切に組み合わせることで、歯科医療現場での感染リスクを最小限に抑えることができます。
患者の感染症の有無が不明な場合でも、常にスタンダードプリコーションを実施することが原則です。そして感染症が判明している、または疑われる患者に対しては、追加で感染経路別予防策を講じるという二段構えのアプローチが必要となるのです。