手袋をしたまま複数の患者に触れると感染リスクは87%上昇する
標準予防策とは、すべての患者に対して標準的に適用する感染予防の基本概念です。これは感染症の有無に関わらず、すべての患者の血液、体液(汗を除く)、分泌物、排泄物、損傷のある皮膚、粘膜を感染性のあるものとして扱う考え方に基づいています。
この考え方が生まれた背景には、HIV感染症の流行があります。1980年代、患者の感染症の有無が不明な状況でも医療従事者を守る必要性から、CDCが1996年に「病院における隔離予防策のためのガイドライン」で初めて提唱しました。日本の医療現場でも広く採用されている国際的な標準となっています。
標準予防策の目的は二つあります。一つは患者から医療従事者への感染を防ぐこと、もう一つは医療従事者を介した患者から患者への交差感染を防ぐことです。針刺し事故による職業感染では、B型肝炎ウイルスの感染率が6~40%、C型肝炎ウイルスが約2%、HIVが0.3%と報告されており、適切な予防策の実施が極めて重要になります。
つまり二重の保護が基本です。
歯科医療の現場では、高速回転切削器具や超音波スケーラーの使用により、血液や唾液で汚染されたエアロゾルが診療室に飛散する可能性が特に高くなります。このため標準予防策の徹底は、一般医療以上に重要な意味を持つのです。
看護roo!のスタンダードプリコーション解説では、標準予防策の10項目について詳しく学ぶことができます。
手指衛生は標準予防策の中で最も重要な要素です。WHO(世界保健機関)が推奨する手指衛生の5つのタイミングは、患者接触前、清潔操作前、体液曝露後、患者接触後、患者周辺環境接触後となっています。
具体的には、患者に触れる前には握手や移動介助の前、入浴や清拭の前、脈拍測定や血圧測定の前などが該当します。清潔操作の前とは、採血やフォーレ交換、点滴準備などの無菌操作を行う前を指します。体液曝露後は、唾液や血液、分泌物などに触れた可能性がある場合です。患者に触れた後には、診察後や処置後が含まれます。患者周辺環境に触れた後とは、ベッドリネン交換後、点滴速度調整後、アラーム確認後、ベッド柵やベッドサイドテーブルに触れた後などです。
これらのタイミングですべて実施すれば完璧です。
しかし現実には手指衛生の遵守率は決して高くありません。ある医療施設での観察調査では、医療従事者全体の手指衛生遵守率は約19%で、医師は15%、看護師でも23%という結果が報告されています。部署別では内科17.8%、外科4.3%、ICU68.9%と大きな差がありました。
手指衛生の方法には、石けんと流水による手洗いと、速乾性アルコール製剤による手指消毒の二種類があります。目に見える汚れがある場合や、下痢症例のケア後には必ず石けんと流水で手洗いを行います。それ以外の場合は、速乾性アルコール製剤による手指消毒が推奨されています。アルコール製剤は15秒程度で乾燥し、手荒れも起こりにくいという利点があります。
歯科診療では、患者の口腔内に直接触れる機会が多いため、特に清潔操作前と体液曝露後の手指衛生が重要です。診療前後だけでなく、患者ごと、処置ごとに確実に実施することで、交差感染のリスクを大幅に減少させることができます。
サラヤのWHO手指衛生5つのタイミング解説では、具体的な場面例とともに詳しい説明があります。
個人防護具(PPE)は、血液や体液などの湿性生体物質から医療従事者を守るための防護用品です。主なものには手袋、マスク、ゴーグル・フェイスシールド、ガウン・エプロンがあります。
個人防護具の選択は、曝露が予想される部位に応じて行います。手に触れる可能性があれば手袋、鼻や口に飛散する可能性があればマスク、目に飛散する可能性があればゴーグルまたはフェイスシールド、体幹に付着する可能性があればエプロン、体幹と腕に広範囲に付着する可能性があればガウンを着用します。歯科診療では高速回転器具の使用により広範囲にエアロゾルが飛散するため、マスクとゴーグル(またはフェイスシールド)の併用が基本となります。
着脱の順序が極めて重要です。
着用時の順序は「がまんして」と覚えます。これは感染認定看護師が推奨する覚え方で、ガウン(が)、マスク(ま)、無くて(ん)、シールド(し)、手袋(て)の順番を表しています。手袋は最後に装着することで、他の防護具を装着する際の汚染を防ぎます。
脱ぐときは逆の考え方が必要です。最も汚染されている手袋を最初に外し、すぐに手指衛生を行います。その後、ゴーグル・フェイスシールド、ガウン・エプロン、最後にマスクの順で外します。外す際のポイントは、個人防護具の表面に素手で触れないことです。表面は汚染されていると考え、マスクはゴムひもを持って外し、ゴーグルは耳にかける部分を持って外します。
手袋については特に注意が必要な点があります。手袋にはピンホールという目に見えない小さな穴が製造過程で生じている可能性があります。
また使用中に破損することもあります。
そのため手袋を外した後は必ず手指衛生を行う必要があります。さらに、同じ患者でも湿性生体物質に曝露した手袋は、他の部位に触れる前に交換しなければなりません。パソコンなど共有物品に触れるときは手袋を外すことも重要です。
意外なことですが、手袋の二重装着は推奨されていません。手袋を二重にして外側を外し、手袋の上から手指消毒をして内側の手袋で次の作業をする方法は、外す際に内側の手袋が汚染されるリスクがあります。こまめに手袋を交換し、その都度手指衛生を行う方が確実な感染予防になります。
職業感染制御研究会のPPE着脱手順では、動画や図解で詳しい手順が確認できます。
歯科診療における最大の特徴は、エアロゾルの発生量が多いことです。エアロゾルとは、空気中に浮遊する0.001μmから100μmの粒子のことで、歯科では高速回転切削器具や超音波スケーラーの使用により、血液や唾液を含んだエアロゾルが大量に発生します。
エアロゾルは数時間程度空中を漂うため、適切な対策を取らないと診療室全体が汚染され、次の患者や医療従事者の感染リスクが高まります。標準予防策だけでは不十分な場面もあるのです。
対策の基本は三つあります。
一つ目は口腔内バキュームの確実な使用です。
処置中は常にバキュームを適切な位置に保持し、飛散する前に吸引することが重要です。二つ目は口腔外バキューム(口腔外吸引装置)の活用です。これは患者の口元付近で発生するエアロゾルを吸引する装置で、診療室内への飛散を大幅に減少させます。
三つ目は十分な換気です。
1~2時間に一回10分程度の窓開け換気、または空気清浄機とサーキュレーターの併用により、浮遊するエアロゾルの濃度を下げることができます。
診療室全体で対策が必要です。
個人防護具の選択も重要になります。エアロゾルが発生する処置では、サージカルマスクに加えてゴーグルまたはフェイスシールドの着用が必須です。N95マスクの着用は、結核など空気感染する疾患が疑われる場合に限定されます。通常の歯科診療では、適切に装着されたサージカルマスクで十分な防御効果があります。
さらに診療後の環境清掃も重要な対策です。診療台、ライト、ユニット周辺など、高頻度接触表面は患者ごとに清拭消毒を行います。床に血液や唾液が付着した場合は、手袋を着用してペーパータオルで拭き取った後、1000ppmの次亜塩素酸ナトリウムで清拭消毒し、水拭きします。壁や床などの環境表面は、特別な汚染がない限り消毒は不要とされています。
日本環境感染学会の歯科診療における感染対策では、エアロゾル対策について詳しく解説されています。
標準予防策は理論的には完璧な感染予防システムですが、実際の医療現場では遵守率の低さが大きな課題となっています。特に忙しい診療時間帯や緊急対応時には、手順の省略や不適切な実施が起こりやすくなります。
日本の3次ケア病院の看護師を対象とした調査では、個人防護具の使用遵守率が予想以上に低いことが明らかになりました。手袋の着用は比較的守られている一方で、ゴーグルやフェイスシールドの着用、適切なタイミングでの手袋交換などは遵守率が低い傾向にありました。
改善には組織的な取り組みが不可欠です。
効果的な改善策として、まず定期的な教育・研修の実施があります。新人だけでなく、すべての医療従事者を対象に、年に複数回の実技研修を行うことが推奨されています。単なる座学ではなく、実際に個人防護具を着脱し、手指衛生のタイミングを体験する実践的な研修が効果的です。
次に環境整備も重要です。手指消毒薬を診療室の複数箇所に設置し、いつでも手指衛生ができる環境を作ります。個人防護具も使いやすい場所に十分な量を準備しておくことで、着用の障壁を減らすことができます。歯科診療室では、各診療台の手の届く位置に手指消毒薬と個人防護具を配置することが理想的です。
モニタリングシステムの導入も効果があります。手指消毒薬の使用量を月ごとに記録し、使用量が少ない部署には個別指導を行います。また定期的に直接観察法による手指衛生遵守率の調査を実施し、結果をフィードバックすることで意識向上につながります。ある病院では、手指衛生遵守率の観察調査とフィードバックを継続的に行った結果、遵守率が37%から68%まで向上したという報告があります。
リーダーの役割も重要です。感染管理担当者だけでなく、各部署のリーダーが標準予防策の重要性を理解し、日常的に声かけや指導を行うことで、チーム全体の意識が高まります。良い手本を示すことで、若手スタッフの行動にも良い影響を与えることができます。
厚生労働省の標準予防策と経路別予防策ガイドラインでは、医療機関における組織的な取り組みについて詳しく説明されています。