通常診療にレベル3を使い続けると年間で数万円の無駄なコストが発生します。
歯科医療現場で使用されるサージカルマスクには、米国試験材料協会(ASTM)が定めた性能基準によってレベル1から3までの分類が存在します。この規格は世界的に広く認知されており、日本の医療現場でもASTM規格に準拠した製品が数多く流通しています。
レベルの数字が大きいほど防護性能は高くなりますが、すべての処置で最高レベルが必要というわけではありません。ASTM F2100-20の規格では、細菌濾過率(BFE)、微粒子濾過率(PFE)、血液不浸透性、呼気抵抗、延燃性の5つの指標で性能を評価します。
レベル1は細菌濾過率95%以上、血液不浸透性80mmHgという基準を満たしており、一般的な歯科診療には十分な性能を持っています。つまり通常の検診やスケーリング程度であればレベル1で問題ありません。レベル2は細菌濾過率98%以上、血液不浸透性120mmHgとなり、中程度の血液飛沫が予想される処置に適しています。レベル3は最高性能で血液不浸透性160mmHgを誇り、抜歯やインプラント手術など大量の出血を伴う処置で威力を発揮します。
この数値の違いが実際の診療にどう影響するか、具体的な場面を想像してみましょう。
血液不浸透性とは、マスクに血液が飛散した際にどの程度の圧力まで内側への浸透を防げるかを示す指標です。単位はmmHg(ミリメートル水銀柱)で表され、人間の血圧に相当する圧力で合成血液をマスクに吹き付けるテストによって測定されます。
レベル1の80mmHgは平常時の血圧程度を想定しています。通常の歯科診療における唾液の飛沫や軽度の出血であれば、この性能で十分にバリア機能を果たすことができます。
レベル2の120mmHgは高めの血圧に相当し、歯肉切除や歯周外科処置など中程度の出血を伴う場面を想定した設計です。歯科衛生士が行うスケーリングやルートプレーニングでも、歯肉の状態によっては出血量が増えることがあるため、レベル2の選択が推奨されるケースも少なくありません。
レベル3の160mmHgは高血圧レベルの圧力に耐えうる設計で、血管を切開するような外科手術に対応します。抜歯、インプラント埋入、顎骨の切除など、明らかに大量の血液飛沫が予想される処置では、レベル3の使用が感染防護の観点から必須と言えるでしょう。この高い防護性能は医療従事者の安全を守る最後の砦となります。
サラヤの感染対策ページでは、マスクの規格基準について詳細な性能比較表が掲載されています。
濾過効率には細菌濾過率(BFE)と微粒子濾過率(PFE)の2種類があり、それぞれ異なるサイズの粒子を捕集する能力を示しています。BFEは約3μm(マイクロメートル)の細菌を含む粒子、PFEは約0.1μmの微粒子が対象です。
レベル1では両方の濾過率が95%以上と定められています。これは100個の粒子のうち95個以上を捕集できる性能を意味し、日常的な飛沫感染対策としては実用的な水準です。一般的な問診や視診、簡単な処置であれば、このレベルで十分な感染防護が実現できます。
レベル2とレベル3では濾過率が98%以上に引き上げられます。わずか3%の違いに思えますが、感染防護の観点では重要な差となります。超音波スケーラーやエアータービンを使用する処置では大量のエアロゾルが発生するため、より高い濾過性能が求められるのです。
ウイルス飛沫濾過効率(VFE)も重要な指標です。日本のJIS規格では、医療用マスクのクラスⅠ、Ⅱ、ⅢすべてでVFE95%以上または98%以上が求められています。新型コロナウイルス感染症の流行以降、ウイルス対策としてのマスク性能に注目が集まり、歯科診療においてもVFE性能の確認が重要視されるようになりました。
歯科医院では1日に多様な処置を行うため、すべての場面で同じレベルのマスクを使用するのは非効率です。処置内容に応じた使い分けによって、感染防護レベルを保ちながらコストを最適化できます。
検診や相談、レントゲン撮影など患者の口腔内に直接触れない業務ではレベル1で十分です。1枚あたりの単価がレベル3と比較して30~50%程度安価なため、年間で考えると大きなコスト削減につながります。1日20人の患者を診察する歯科医院で、レベル1とレベル3の単価差が1枚あたり20円だとすると、年間約7万円の差額が生じる計算になります。
スケーリングや充填処置など中程度の飛沫が予想される処置にはレベル2が適しています。レベル1より防護性能が高く、レベル3より経済的というバランスの良さが魅力です。歯科衛生士の日常業務の大半はこのレベルで対応可能でしょう。
抜歯、歯周外科、インプラント手術など明らかに大量の血液飛沫が発生する処置では、迷わずレベル3を選択します。医療従事者の安全を守るための投資として、ここでのコストカットは避けるべきです。万が一の血液媒介感染のリスクを考えれば、適切な防護具への投資は必要経費と言えます。
処置内容による使い分けを実践するには、各診療室にレベル別のマスクを常備し、スタッフ全員が選択基準を理解しておくことが重要です。朝のミーティングで1日の予定を確認し、必要なレベルのマスクを準備する習慣をつけるとよいでしょう。
2021年6月に制定されたJIS T9001では、医療用マスクをクラスⅠ、Ⅱ、Ⅲの3段階に区分しています。この日本独自の規格とASTM規格は評価項目が似ていますが、完全に同一ではありません。両方の規格を理解しておくことで、より適切な製品選択が可能になります。
JIS規格の特徴は、ホルムアルデヒドや特定アゾ色素などの化学物質規制が含まれている点です。長時間マスクを着用する医療従事者の皮膚トラブルを防ぐための配慮が反映されています。敏感肌のスタッフがいる場合、JIS適合品を選ぶことで皮膚刺激のリスクを低減できます。
人工血液バリア性の基準値もASTM規格と異なります。JIS規格ではクラスⅠが10.6kPa、クラスⅡが16.0kPa、クラスⅢが21.3kPaと規定されており、これらはそれぞれASTM規格のレベル1、2、3にほぼ相当します。1kPa(キロパスカル)は約7.5mmHgに相当するため、数値の単位が違っても性能は同等と考えてよいでしょう。
製品パッケージにJIS適合の表示がある場合、規格適合番号と医療用クラスが明記されています。購入時にはこの表示を確認し、自院の処置内容に適したクラスを選択することが大切です。JIS適合品は国内規格をクリアした安心感があり、品質の信頼性も高いと言えます。
一方、ASTM規格適合品も国際基準として十分な信頼性を持っており、特に海外メーカーの製品はASTM表示が中心です。どちらの規格も性能基準としては問題ありませんので、価格や入手性、使用感などを総合的に判断して選ぶとよいでしょう。
多くの歯科医院では「高性能なマスクを使っていれば間違いない」という考えから、すべての処置でレベル3やクラスⅢを使用しているケースが見られます。しかし過剰な防護は経済的な負担を増やすだけでなく、呼気抵抗の高さから長時間の着用が苦痛になる可能性もあります。
レベル3のマスクは呼気抵抗が6.0mmH2O/cm²以下と規定されており、レベル1の5.0以下と比べてわずかに息苦しさを感じやすい設計です。1日中診療を行う歯科医師や歯科衛生士にとって、この違いは疲労の蓄積につながります。必要のない場面で高レベルを使い続けることは、スタッフの快適性を犠牲にしているのです。
「BFE95%では不十分で98%でないと危険」という思い込みも誤解の一つです。飛沫感染対策において95%と98%の差は理論上3ポイントですが、実際の感染リスク低減効果としては大きな違いはありません。標準予防策を適切に実施していれば、レベル1でも十分な感染防護が可能です。
マスクの性能だけに頼る姿勢も問題です。感染対策の基本は、適切な手指衛生、ゴーグルやフェイスシールドとの併用、診療後の換気といった複数の対策の組み合わせです。高性能マスクを使っていても、手指消毒を怠ったり、マスクの装着方法が不適切だったりすれば、感染防護効果は大きく低下します。
マスクの交換頻度も見落とされがちなポイントです。どんなに高性能なマスクでも、長時間使用すると湿気で濾過効率が低下し、また表面に付着した病原体が増殖するリスクもあります。1患者1交換が理想ですが、最低でも明らかに湿ったり汚れたりした時点で速やかに交換する習慣をつけることが重要です。
コスト削減を意識しすぎて、規格表示のない安価な製品を選ぶのも危険です。ASTM規格やJIS規格の適合表示がない製品は、実際の性能が不明であり、医療現場での使用には適していません。信頼できるメーカーの規格適合品を選び、処置内容に応じてレベルを使い分けることが、安全とコストの両立につながります。