歯科治療の現場では、ハイスピードタービンや超音波スケーラーなどの機器を使用することで、唾液・血液・分泌物などを含む霧状の「エアロゾル」が発生します。このエアロゾルは粒子が小さく、空気中を長時間漂うため、感染症拡大のリスクとなります。特に新型コロナウイルスをはじめとする呼吸器系ウイルスの感染経路として注目されています。
エアロゾル対策として効果的な方法には以下のものがあります。
研究によれば、口腔外バキュームの使用により、エアロゾルの飛散範囲を大幅に縮小できることが確認されています。歯科治療中のエアロゾルは通常半径2mほどの範囲に飛散するため、これを効果的に吸引することは感染予防において非常に重要です。
歯科医療における感染予防の基本は「標準予防策」です。これは全ての患者の血液、体液、分泌物、排泄物などが感染性病原体を含んでいる可能性があるという前提で対応する考え方です。
特に重要なのが手指衛生です。院内感染の90%は手指が原因とされており、適切な手指衛生の実施は最も基本的かつ効果的な感染予防策です。
手指衛生のポイント:
手指衛生のタイミングとしては、以下の「5つのタイミング」が重要です。
また、グローブの適切な使用も重要です。グローブは手指衛生の代用ではなく、グローブを外した後も必ず手指消毒を行う必要があります。患者ごとのグローブ交換はもちろん、同一患者でも汚染された部位から清潔な部位へ処置を移す場合はグローブを交換することが推奨されています。
近年の研究により、歯周病菌とウイルス感染の間に重要な関連性があることが明らかになっています。特に注目すべきは、日本大学歯学部の研究チームによる発見です。2025年1月に発表された研究によれば、歯周病の主要な原因菌である「ポルフィロモナス・ジンジバリス(Porphyromonas gingivalis)」が産生するタンパク質分解酵素「ジンジパイン」がインフルエンザウイルスの感染を促進することが明らかになりました。
この研究では、ジンジパインがインフルエンザウイルスの表面にあるヘマグルチニン(HA)というタンパク質を開裂させ、ウイルスが細胞に侵入しやすい形状に変化させることが示されています。つまり、歯周病菌が存在することで、インフルエンザウイルスの感染力が高まるというメカニズムが解明されたのです。
この発見は、口腔ケアがウイルス感染予防において非常に重要であることを科学的に裏付けるものです。歯周病予防や適切な口腔ケアを行うことで、インフルエンザなどのウイルス感染リスクを低減できる可能性があります。
歯周病菌は口腔内の炎症だけでなく、血流を通じて全身に広がり、免疫機能に悪影響を及ぼすことも知られています。これにより、体全体の感染症に対する抵抗力が低下する可能性があります。
歯科医療現場での感染予防において、個人防護具(PPE: Personal Protective Equipment)の適切な使用は不可欠です。特に歯科治療では、エアロゾルや飛沫、血液などへの曝露リスクが高いため、状況に応じた適切なPPEの選択と正しい着脱が重要です。
必要な個人防護具:
PPEの着脱順序も感染予防において重要なポイントです。着用時は清潔な部分から、脱衣時は汚染されている可能性が高い部分から行います。
PPE着脱の基本順序:
特に脱衣時は、汚染された表面に触れないよう注意が必要です。各ステップの間に手指衛生を行うことで、交差感染のリスクを低減できます。
口腔ケアは単に虫歯や歯周病の予防だけでなく、全身の健康維持や免疫力向上にも関連していることが近年の研究で明らかになってきています。特に、適切な口腔ケアがウイルス感染予防に寄与する可能性は注目に値します。
口腔内の細菌叢(マイクロバイオーム)のバランスが崩れると、病原性の高い細菌が増殖し、前述の歯周病菌のようにウイルス感染を促進する要因となります。逆に、適切な口腔ケアによって健全な口腔内環境を維持することで、ウイルス感染に対する防御機能を高められる可能性があります。
口腔ケアによる免疫力向上のメカニズム:
特に注目すべきは、適切な口腔ケアが呼吸器感染症のリスク低減に効果があるという研究結果です。高齢者施設などでの研究では、定期的な口腔ケアの実施によって肺炎の発症率が低下することが報告されています。これは口腔内の細菌数が減少することで、誤嚥性肺炎のリスクが低減するためと考えられています。
また、歯科医院での定期的なプロフェッショナルケアも重要です。歯科医師や歯科衛生士による専門的なクリーニングは、自宅でのセルフケアでは取り除けない歯石や歯垢を除去し、口腔内環境を改善します。
患者に対しては、以下のようなセルフケアの指導が効果的です。
これらの口腔ケアは、歯科疾患の予防だけでなく、ウイルス感染に対する抵抗力を高める可能性があります。特に感染症が流行する季節には、より丁寧な口腔ケアを心がけることが推奨されます。
歯科医院における環境整備は、患者間およびスタッフ間のウイルス感染を防ぐ上で非常に重要です。特に歯科治療では、エアロゾルの発生により診療室内の環境が汚染されるリスクが高いため、適切な環境管理が求められます。
診療室の環境整備ポイント:
特に重要なのは、エアロゾル発生処置後の環境管理です。研究によれば、エアロゾルは処置終了後も最大30分程度は空気中に浮遊している可能性があります。そのため、エアロゾル発生処置後は十分な換気時間を設けることが推奨されています。
また、待合室や受付エリアなどの共用スペースの管理も重要です。待合室の椅子の間隔を広げる、雑誌などの共用物品を減らす、アクリル板などの仕切りを設置するなどの対策が効果的です。
診療室内の物品配置も感染対策の観点から見直すことが重要です。必要な器具や材料は手の届く範囲に配置し、診療中の移動を最小限にすることで、環境汚染のリスクを低減できます。また、使用頻度の低い物品は収納し、表面の清掃・消毒がしやすい環境を整えることも大切です。
これらの環境整備は、スタッフ全員が意識を共有し、チームとして取り組むことが重要です。定期的な研修や情報共有を通じて、最新の感染対策知識を更新し続けることが、安全な歯科医療環境の維持につながります。