象牙前質は「石灰化が完了している」と思われがちですが、実は象牙前質は完全に未石灰化の層で、歯髄腔が拡大した患者では幅が通常の3倍以上に広がるケースもあります。
象牙前質(ぞうげぜんしつ/英:predentin)とは、歯髄腔の内面に沿って存在する、まだ石灰化していない有機基質に富む象牙質の前段階の層を指します。クインテッセンス出版の歯科用語小辞典(臨床編)には「歯髄腔内面の歯髄に接する象牙質部分で、石灰化の弱い象牙質」と定義されており、「象牙質の発育前段階のもの」と明記されています。
象牙質はすべてが一度に完成するわけではなく、まず象牙芽細胞(odontoblast)が有機性基質を分泌し、その後この基質が石灰化することで初めて成熟した象牙質となります。つまり象牙前質は、「象牙質になる前の、まだ未完成の基質層」です。
この層は歯髄に隣接しており、組織切片で観察すると、成熟した原生象牙質(歯髄から遠い側)と象牙芽細胞層(歯髄側)の間に明確に確認できます。日本口腔病理学会が提供する口腔病理基本画像アトラスでも、HE染色標本の顕微鏡画像で「左から原生象牙質・象牙前質・象牙芽細胞層を含む歯髄」という並びが示されています。基本は頭に入れておきたいところです。
位置関係を整理するとこのようになります。
| 層の名称 | 石灰化の状態 | 歯髄との位置関係 |
|---|---|---|
| 原生象牙質(第一象牙質) | 石灰化完了 | 外側(エナメル質寄り) |
| 象牙前質 | 未石灰化 | 歯髄のすぐ外側 |
| 象牙芽細胞層 | 細胞層(非硬組織) | 歯髄腔内面 |
つまり象牙前質が基本です。歯科衛生士向けの教科書(全国歯科衛生士教育協議会監修『歯・口腔の構造と機能』)にも、「象牙質の最内層に位置するまだ石灰化していない有機基質に富む領域を象牙前質という」と明記されており、国家試験レベルの必須知識として位置づけられています。
参考:象牙前質の定義と位置づけに関する歯科用語小辞典(クインテッセンス出版)
https://www.quint-j.co.jp/dictionaries/terminology_clinical/27984
象牙前質の主成分はコラーゲンです。東京大学医科学研究所の学友会セミナー(2007年)における山越康雄博士(ミシガン大学歯学部)の講演概要では、象牙質の有機性基質の「ほとんどがコラーゲンで、残りの約10%が非コラーゲン性タンパク質(NCP)」と整理されています。NCPの中で最も多いのが象牙質シアロリンタンパク(DSPP:dentin sialophosphoprotein)です。
DSPPは象牙芽細胞が合成・分泌した後、酵素によって3つのタンパク質に切断されます。
- DSP(象牙質シアロタンパク):管周象牙質の形成に関与すると考えられており、プロテオグリカンとして機能する
- DGP(象牙質糖タンパク):N型糖鎖を含むリン酸化糖タンパク質
- DPP(象牙質リンタンパク):高度にリン酸化された強酸性タンパク質で、象牙前質と石灰化象牙質の石灰化前線に局在し、管間象牙質の形成に関与すると考えられている
特にDPPは、象牙前質の石灰化前線において重要な役割を果たします。これは使えそうです。DPPはカルシウムイオンと結合する性質を持ち、石灰化の開始を調節する「核形成因子」として機能すると考えられています。
また東京医科歯科大学のGCOEプログラム報告書(2009年度)では、デコリン(decorin)の発現量が象牙前質の石灰化前線における基質石灰化に重要であると報告されています。デコリン欠損マウスでは象牙前質の拡大が生じましたが、デコリン補充によって象牙前質の幅が野生型に近い値まで回復したとされており、象牙前質の正常な石灰化維持にデコリンが欠かせないことが示されています。
象牙前質の幅は通常、約10〜20µmとされており、これは髪の毛の直径(約70µm)と比べると非常に薄い層です。この極めて薄い領域が正常に機能することで、石灰化が秩序立って進行します。石灰化は秩序が命です。
参考:DSPPと象牙質形成のメカニズム(東京大学医科学研究所・学友会セミナー資料)
https://www.ims.u-tokyo.ac.jp/imsut/jp/events/gakuyukai/archive_post_49.html
象牙前質が成熟した象牙質に変化するプロセスの鍵となるのが「石灰化前線(calcification front)」です。石灰化前線とは、象牙前質と石灰化済みの象牙質との境界部位であり、ここで実際にリン酸カルシウムの結晶化(石灰化)が始まります。
石灰化の開始様式は大きく2つに分類されます。
1. 基質小胞性石灰化:原生象牙質の最外層(エナメル-象牙境に近い約20µmの部分)において、象牙芽細胞から分泌された基質小胞(matrix vesicle)の中にリン酸カルシウム結晶が生じることで石灰化の核が形成される。
2. 石灰化球性石灰化(球状石灰化):石灰化の進行に伴い、球状の石灰化塊(カルコスファライト)が互いに融合していくことで石灰化が広がっていく。
これらのメカニズムによって、象牙前質の歯髄側から遠位側に向かって順次、石灰化が進んでいきます。象牙前質は「常に補充されながら消費される」ダイナミックな層ともいえます。象牙芽細胞が基質を分泌し続ける一方で、石灰化前線がそれを消費していくサイクルが一生涯にわたって続くのです。
全国歯科衛生士教育協議会の教科書では、象牙質の形成について「原生象牙質のうち最初に形成される厚さ約20µmの部分を外套象牙質といい、それ以外の部分を髄周象牙質という」とも記述されています。
この石灰化前線が正常に機能しないと、象牙前質の幅が病的に広がります。たとえば前述のデコリン欠損マウスのように、石灰化調節タンパク質の発現異常によって象牙前質が過剰に蓄積し、象牙質形成不全の一因になる可能性があります。石灰化前線の異常は要注意です。
参考:歯の発生と組織学(日本口腔病理学会・口腔病理基本画像アトラス)
http://www.jsop.or.jp/atlas/supplements/development-and-histology-of-the-teeth/
象牙前質の重要な臨床的意義のひとつが、修復象牙質(第三象牙質)形成との直接的な関係性です。歯が外来刺激(う蝕、咬耗、歯の切削)を受けると、象牙芽細胞はその刺激に反応して新たな象牙前質の分泌を増加させ、石灰化後に修復象牙質(第三象牙質)として歯髄腔側に添加されます。
この第三象牙質は、さらに刺激の強さによって2種類に分類されます。
- 反応象牙質(reaction dentin):比較的弱い刺激に対して形成されるもの。通常の象牙芽細胞が関与するため、象牙細管が規則的に走行しており、原生象牙質に近い性状を持つ。
- 修復象牙質(reparative dentin):強い刺激によって既存の象牙芽細胞が壊死し、新たに分化した「象牙芽細胞様細胞」が象牙前質を分泌することで形成される。象牙細管の走行が不規則で、質としては原生象牙質よりも劣る場合が多い。
この仕組みからわかることがあります。つまり象牙前質を産生する「象牙芽細胞の生存」こそが、歯髄の防御能力を左右するということです。窩洞形成の際に過度な切削熱や化学的刺激を与えると、象牙芽細胞が不可逆的なダメージを受け、修復象牙質の質が低下するリスクがあります。
日本歯科保存学会のAIPCガイドラインでは、タンニン・フッ化物合剤配合カルボキシレートセメントや水酸化カルシウム製剤を貼付することによって「3〜6ヶ月で第三象牙質(修復象牙質)の形成が認められる」と明記されています。これは歯髄腔内の象牙前質が正常に機能している状態で初めて可能となります。歯髄が生きていることが条件です。
参考:日本歯科保存学会AIPC(非侵襲性歯髄覆罩)ガイドライン
https://www.hozon.or.jp/member/statement/file/aipc_guideline.pdf
歯科臨床では「歯髄保護処置」と「裏層」の要否がしばしば議論されます。一般的には「深在性の窩洞には裏層が必要」というイメージが広まっていますが、日本歯科保存学会の診療ガイドライン(2024年)では「直接修復の場合、深在性の齲蝕であっても、覆髄や裏層は必要ない」という見解も示されており、臨床判断の前提となる組織学的理解が改めて問われています。
この議論の根底にあるのが、まさに「象牙前質の存在と状態」です。具体的には以下の視点が重要になります。
- 残存象牙質の厚さ:残存象牙質厚が0.5mm以下になると歯髄への刺激が急激に増大するとされており、象牙前質が正常な幅(約10〜20µm)を維持しているかどうかが、歯髄の健全性を間接的に示す指標となる。
- 象牙芽細胞の状態:象牙前質を分泌している象牙芽細胞が生存しているかどうかは、術後の第三象牙質形成能を予測する上で直接的な指標となる。
- 石灰化前線の位置:外来刺激に対して石灰化前線が歯髄側に移動する(修復象牙質が形成される)現象は、象牙前質のダイナミクスが正常であることを示すポジティブな反応である。
この観点から見ると、象牙前質の知識は単なる組織学の教科書的内容にとどまらず、「間接覆髄をいつ行うか」「MTA等の材料をどの深さで使用するか」という意思決定に直結します。歯髄保護の成否は象牙前質次第といえます。
歯科診療報酬上の「歯髄保護処置(I001)」では、「う窩の処置としての象牙質の削除を行うとともに、歯髄保護処置及び暫間的間接覆罩法(IPC)を行う場合に算定できる」と定められています。この算定を適切に行うためにも、象牙前質・歯髄・修復象牙質の連動メカニズムを正確に把握しておくことが求められます。
臨床的な場面での確認として、深在性う蝕への対処を検討する際には、日本歯科保存学会が公開している「歯髄保護の診療ガイドライン」を定期的に参照することが信頼性の高い判断の助けになります。
参考:歯科診療報酬点数表・歯髄保護処置I001の詳細
https://shirobon.net/medicalfee/latest/shika/r06_shika/r06s_ch2/r06s_pa8/r06s28_sec1/r06s281_cls1/r06s2811_I001.html
参考:日本歯科保存学会・歯髄保護の診療ガイドライン(2024年改訂版)
https://www.hozon.or.jp/member/publication/guideline/file/guideline_2024.pdf