「前処理不要」と信じて使うと、接着強度が最大30%低下するリスクがあります。
multilink speed cement(マルチリンク スピード)は、スイスのIvoclar Vivadent社が開発した、セルフアドヒーシブタイプの接着性レジンセメントです。日本では「マルチリンク スピード」の名称で管理医療機器として流通しており、ジルコニアや金属、さらにインプラントアバットメントへの間接修復物の永久装着を目的として設計されています。
「multilink(マルチリンク)」シリーズはIvoclar Vivadentの接着性レジンセメントのラインナップで、その中でもmultilink speedは簡便性と確実な接着強度を両立させた製品として位置づけられています。従来のマルチリンク オートミックスと比べ、歯面への前処理ステップを省略できるセルフアドヒーシブ設計が最大の特長です。
製品が注目される背景には、臨床現場でのチェアタイム短縮への需要があります。補綴物の装着ステップは、前処理・プライマー塗布・セメント填入・余剰セメント除去と多工程にわたりますが、multilink speed cementはMDP(メタクリロイルオキシデシルジハイドロジェンホスフェート)系の接着性モノマーを配合することで、歯面に対するプライマー処理なしで使用できます。これは術者の技術的ばらつきを減らし、被着面への汚染リスクを低減する効果があります。
主な特長は下記のとおりです。
市場での評価としては、Ivoclar Vivadentが2019年に欧州・米国の歯科医約144名を対象に実施した顧客調査において、高い満足度が確認されています。セルフアドヒーシブ型は世界的に普及が進んでおり、multilink speed cementはその中でも臨床実績が豊富な製品のひとつです。
Ivoclar公式:Multilink Speed製品ページ(英語)
multilink speed cementの適応範囲は広く設計されていますが、すべての補綴物に適しているわけではありません。これが原則です。
Ivoclarが公表している適応症を整理すると、以下の修復物に対応しています。
一方、注意が必要なケースがあります。リチウムジシリケートクラウンの中でも、壁厚が1.5mm未満の薄いものやベニア(ラミネートベニア)などガラスセラミックス系の審美修復物には適していません。これらの症例では、バリオリンク エステティックのような光重合型の接着性レジンセメントが推奨されます。
重要なポイントがあります。multilink speed cementは「歯面(支台歯)側への前処理は不要」ですが、補綴物内面への前処理は別問題です。とくにジルコニアや金属補綴物に対しては、モノボンドプラス(Ivoclar)などのユニバーサルプライマーで補綴物内面を処理することがメーカーから推奨されています。
この点を「セルフアドヒーシブだから補綴物も何もしなくていい」と誤解してしまうケースが臨床現場では少なくありません。J-Stageに掲載された研究でも、「開発当初のセルフアドヒーシブセメントの接着強さは、接着操作を省略したゆえに表面処理を行ったレジンセメントと比較して低下することが報告された」とされており、補綴物側の適切な前処理は接着の長期安定性に直結します。
さらに、試適後に唾液で汚染された補綴物には、イボクリーン(Ivoclean)などのクリーニング材でリコンディショニングを行ってから装着することが推奨されます。これはmultilink speedに限らず、セルフアドヒーシブ型全般に共通する注意事項です。
multilink speed cementを正確に使うためには、ステップごとの理解が欠かせません。以下に基本的な臨床手順を整理します。
【STEP 1】補綴物の前処理
試適後、補綴物は口腔内からいったん取り出してリコンディショニングします。ジルコニアや金属修復物の場合は、イボクリーンで表面をクリーニングし、その後モノボンドプラスを60秒間塗布・反応させてから乾燥します。これが基本です。
【STEP 2】支台歯の清掃
支台歯の仮封材を除去し、オイルフリーのクリーニングペースト(プロキシット Fフリーなど)で清掃します。歯面への別途プライマー塗布は不要です。
【STEP 3】セメントの填入
オートミックスシリンジにミキシングチップを装着し、先端の数滴を捨て打ちしてから補綴物内面にセメントを直接盛ります。ルートキャナルチップを使えば根管内への直接填入も可能です。
【STEP 4】補綴物の圧接と余剰セメントの除去
補綴物を圧接した直後、まず光照射器で各面2〜3秒のタックキュアを行います。タックキュアとは、光照射によってセメントを半硬化させ、余剰セメントを塊として除去しやすくする操作です。これは使えそうです。タックキュア後、フロスやスカラーを用いて余剰セメントをまとめて除去します。
【STEP 5】最終光照射
余剰セメント除去後、咬合面・頬側面・舌側面それぞれから光照射を行い、完全硬化させます。光が届かない不透明修復物(ジルコニアや金属)の場合はセルフキュアに委ねます。化学重合ベースのデュアルキュア型であるため、光が届かない部位でも確実に硬化します。
注意点をひとつ挙げます。余剰セメントの除去を焦ってしまい、タックキュアをスキップしてゲル状のうちに操作しようとすると、セメントが引き延ばされて辺縁封鎖性が下がるリスクがあります。タックキュアはチェアタイムを短縮しながら余剰処理を確実にする重要なステップなので、省略しないことが条件です。
インプラント症例では、余剰セメントが残存するとインプラント周囲炎のリスクが高まることが知られています。multilink speedの高いX線造影性は、術後X線写真でのセメント残存確認に有効です。この点も臨床上のメリットとして活用してください。
multilink speed cementが歯科医に支持される大きな理由のひとつが、化学重合ベースのデュアルキュア設計にあります。これが接着の安全性を大きく高めています。
デュアルキュア型とは、光重合と化学重合の両方の硬化機構を持つタイプのことです。つまり、光が届く部位は光照射で素早く硬化でき、光が届かない部位(根管内、厚みのある不透明修復物の下)は化学重合で確実に硬化します。
特にジルコニアクラウンや金属修復物の接着では、修復物自体が不透明であるため、辺縁部にしか光が届きません。光重合のみのセメントでは、辺縁から遠い部位のセメントが十分に硬化しないリスクがあります。multilink speed cementではそのような懸念がなく、オペーク(不透明)な修復物への使用でも安心感があります。
Ivoclarが実施した接着強度試験によれば、multilink speed cementは光照射なしの状態、すなわち化学重合のみでも、ジルコニア・金属・象牙質に対して高い接着強度を発揮することが確認されています。ジルコニアへの接着に特化して設計されたMDP含有の接着性モノマーが、表面との化学的な結合をもたらすためです。
また、デュアルキュアの特性は根管内ポスト(ファイバーポスト・ジルコニアポスト)の合着にも有利に働きます。ルートキャナルチップを使ってセメントを根管内に直接填入し、ポストを挿入して余剰を除去したあと、20秒の光照射でポストを保持しながら硬化を促進できます。光が届きにくい根管深部は化学重合で補完されます。
高湿度耐性もmultilink speedの特長のひとつです。乾燥象牙質だけでなく湿潤象牙質に対しても一貫した高い接着強度を示すことがデータで確認されています。これは臨床では「完全な乾燥が難しい状況でも接着品質が安定しやすい」ことを意味します。臨床リスクのひとつが軽減できるということですね。
Ivoclarの製品ラインナップを扱う際、multilink speed cementとSpeedCEM Plus(スピードセム プラス)の違いに迷う臨床家は少なくありません。この2製品は用途が異なります。
まずそれぞれの位置づけを整理します。multilink speed cementは「接着性レジンセメント」であり、歯質や金属・ジルコニアへの化学的接着を目的とした製品です。一方、SpeedCEM Plusは同じくセルフアドヒーシブタイプですが、主にジルコニアや金属の修復物の「通常の合着」を想定したセメントとして位置づけられています。Ivoclarの「セメント選択ガイド」では、酸化ジルコニウム修復物への推奨としてSpeedCEM Plusが掲載されており、より簡便なプロトコルが特徴です。
違いをまとめると以下のようになります。
| 項目 | multilink speed cement | SpeedCEM Plus |
|---|---|---|
| タイプ | 接着性レジンセメント(セルフアドヒーシブ) | セルフアドヒーシブセメント |
| 主な適応 | ジルコニア・メタル・リチウムジシリケート(壁厚1.5mm以上)・ポスト | ジルコニア・メタル修復物の通常合着 |
| 接着力 | 高い接着強度を重視した設計 | 通常の合着に必要な強度 |
| 硬化方式 | デュアルキュア(化学重合ベース) | セルフキュア+オプション光重合 |
| 補綴物前処理 | モノボンドプラス推奨 | MDP配合により原則不要 |
どちらを選ぶかの基準として、「将来的な脱離リスクを最小化したい症例」「支台歯の保持形態が不十分な症例」にはmultilink speed cementが有利です。一方、「プロトコルをできるかぎりシンプルにしたいジルコニアの通常症例」にはSpeedCEM Plusが適しています。
また、ガラスセラミックス(長石系ポーセレン、リチウムジシリケートの薄いベニア等)にはいずれも不向きであり、モノボンド エッチ&プライムとバリオリンク エステティックの組み合わせが適切です。これが原則です。
素材と症例のリスクプロフィールを見極めて、セメントを選択するという流れが正攻法です。迷ったときは、Ivoclarが公開している「セメント選択ガイド」を参考にすると、使い分けの判断基準が明確になります。
multilink speed cementについて語られる際、接着強度やプロトコルの簡便さにフォーカスされることがほとんどです。しかし、「高いX線造影性」という特長が持つ臨床的意義は、意外と深掘りされていません。これは見落とせないポイントです。
インプラント治療において余剰セメントは深刻なリスク因子として知られています。2012年にJournal of Periodontologyに掲載された研究では、インプラント周囲炎の症例のうち約81%でインプラント周囲溝への余剰セメントの存在が確認されたとの報告があります。つまり、余剰セメントの残存はインプラントの長期予後に直結する問題です。
multilink speed cementの高いX線造影性は、この問題への対策のひとつとして機能します。装着直後の確認X線において、エナメル質・象牙質とセメントの濃度差が明確なため、辺縁部やサブジンジバル(歯肉縁下)への残存セメントをより発見しやすい環境が整います。
さらに実践的な活用として、インプラント上部構造の装着時にはセメント量を最小化する「アンダーフィル」で填入し、装着後のX線確認を習慣化するフローに組み込む方法があります。具体的には、補綴物内面に薄くセメントを塗布したあと、圧接しながらタックキュアで余剰を素早く除去し、直後にX線撮影で残存の有無を確認するという流れです。
multilink speed cementのもうひとつの見逃されがちな特長として、「水への溶解度の低さ」も長期的な臨床安定性に寄与します。口腔内は常に水分と接しており、セメントの溶解は辺縁封鎖性の低下を招きます。溶解度の低さはすなわち二次齲蝕リスクの抑制にもつながります。
これらの特性は単体で語られることが多いですが、「インプラント症例での余剰セメント管理+長期安定性確保」という文脈で組み合わせると、multilink speed cementの臨床的価値がより立体的に見えてきます。セルフアドヒーシブとしての操作性の高さに加え、高X線造影性と低溶解性を意識して使うことが、長期予後に差をつける一歩になります。
OralStudio:マルチリンク スピード 製品詳細ページ(日本語)