「麻酔を打ったのに痛みを感じる患者が続く」とお悩みではないですか?
「痛みに強い人」と「痛みに弱い人」の違いは、気持ちの問題ではありません。
痛み閾値(疼痛閾値)とは、ある刺激が「痛み」として知覚される最小の強度を指します。閾値が高ければ強い刺激を受けても痛みを感じにくく、逆に閾値が低ければわずかな刺激でも痛みが発生します。歯科臨床では、この閾値の高低が「麻酔が効いているのに患者が痛がる」「同じ処置でも患者によって反応が全然違う」という現象に直結しています。
重要なのは、疼痛閾値は生まれつき固定されたものではなく、日々・時間帯・状況ごとに変動するという点です。脳内で痛みを伝える神経細胞の興奮性や、神経伝達物質(セロトニン・ノルアドレナリン・エンドルフィンなど)の放出量が変化することで、閾値は上下します。たとえばβエンドルフィンが豊富に分泌されている状態では痛みを感じにくく(閾値↑)、不安や恐怖によって交感神経が過剰に興奮している状態では、わずかな刺激でも強く痛みを感じます(閾値↓)。
歯科医院を受診する患者の約77%が何らかの治療不安を持っているというデータがあります(松本歯科大学リポジトリ)。つまり、7割以上の患者が「すでに閾値が下がった状態」でチェアに座っていると考えておくのが現実的です。これは決して「患者が大げさ」なのではなく、神経科学的に説明できる生理現象です。
つまり閾値の変動は科学的事実です。
| 閾値を下げる(痛みを感じやすくする)要因 | 閾値を上げる(痛みを感じにくくする)要因 |
|---|---|
| 強い不安・恐怖・疼痛恐怖 | 十分な睡眠・休息 |
| 睡眠不足・疲労 | 共感・理解・安心感 |
| 強い炎症(組織の酸性化) | 気晴らし・注意転換(音楽など) |
| 繰り返し痛みを感じ続けること | エンドルフィン分泌(リラックス) |
| 孤独感・うつ状態 | 不安の減退・前向きな気持ち |
歯科従事者は「患者が痛がっている=麻酔が足りない」という単純な図式から脱する必要があります。閾値という概念を持つことで、「今この患者の閾値はどういう状態か?」という視点が加わり、より精度の高い痛みコントロールが可能になります。
▶ 疼痛恐怖と疼痛閾値の関係(ひぐち歯科クリニック)|疼痛閾値を上下させる心理・生理的要因を詳しく解説
「炎症が強いと麻酔が効かない」という現象は知っていても、なぜかを正確に説明できますか?
健康な組織のpHは約7.4(弱アルカリ性)です。歯科で一般的に使用されるリドカイン系の局所麻酔薬は、このpH7.4前後の環境で最も効率よく神経膜を透過し、Naチャネルをブロックします。ところが炎症が起きた組織はpHが酸性側(pH6〜6.5程度)に傾きます。酸性環境では、麻酔薬の「非イオン型(膜透過性の高い形)」の割合が減り、薬剤が神経膜を通り抜けにくくなります。これが「炎症があると麻酔が効きにくい」最大の理由です。
さらに炎症部位では血流が増加します。血流が多いと投与した麻酔薬が速やかに洗い流されてしまい、局所での薬剤濃度が維持できません。結果として、麻酔量を増やしても「効いた」と感じるまでに時間がかかったり、途中で効果が切れたりします。これは閾値の問題ではなく麻酔薬の物理化学的な問題ですが、患者には「麻酔が効かなかった」という体験として記憶されます。
これは痛いですね。
その体験の蓄積が次回以降の「歯医者恐怖」につながり、さらに閾値を下げるという悪循環が生まれます。歯科の歴史で「治療中に痛みを感じる+それでも治療を続ける」を繰り返すと、疼痛閾値が低下し、次第に麻酔が効きにくい状態に陥ることが報告されています(ハシモトデンタルオフィス)。これを「疼痛閾値の習慣的低下」と呼びます。歯科に恐怖感が強い患者の多くは、こうした過去の経験が閾値を恒常的に下げてしまった可能性があります。
歯科従事者にとっての実践的含意は明確です。強い炎症がある患者には、「今日は麻酔がやや効きにくい状態ですが、炎症が落ち着けば次回はスムーズです」と事前に一言説明することで、患者の「麻酔が効かなかった失望体験」の意味づけが変わります。また、炎症が高度な急性症状の段階では、抗炎症処置を先行させてから本格的な処置に臨む判断も、閾値コントロールの観点から合理的です。
炎症コントロールが痛み管理の土台です。
▶ 麻酔が効かない・効きにくい理由の詳細解説(下北沢駅前歯科クリニック)|炎症・pH・疼痛閾値の関係を患者向けにわかりやすく整理
「カロナールはロキソニンより弱い鎮痛剤」と思い込んでいると、歯科臨床で損をします。
ロキソニン(ロキソプロフェン)とカロナール(アセトアミノフェン)は、どちらも歯科でよく処方される鎮痛剤です。代謝経路が異なり(ロキソニン=腎代謝、カロナール=肝代謝)、炎症への作用メカニズムも異なります。ロキソニンは末梢のプロスタグランジン合成を強力に抑制するNSAIDsであり、歯の炎症に対して高い抗炎症効果を発揮します。
一方でカロナール(アセトアミノフェン)は、視床と大脳皮質に作用して痛覚閾値そのものを上昇させるという、ロキソニンにはない中枢性作用を持っています。添付文書上も「視床と大脳皮質の痛覚閾値を上昇させることによる鎮痛作用」と明記されており、末梢性の炎症が明確でない痛み(たとえば心因性・非歯原性歯痛)に対してもアプローチできる可能性があります。これは意外ですね。
炎症があれば末梢で作用するロキソニン、炎症のエビデンスが乏しい慢性的な痛みや閾値低下が主因と思われるケースではカロナールが有効な場合があります。実際、顎関節症の痛みコントロールにおいては日本顎関節学会がカロナール(アセトアミノフェン)を推奨しています。非歯源性歯痛の半数以上は筋・筋膜の関連痛が原因とされており(参考:日本歯科医師会テーマパーク8020)、その場合は末梢の炎症を狙ったロキソニンよりも閾値を上げるカロナールの方が奏効しやすいケースがあります。
ただし注意点も必須です。カロナールは1日総量1500mgを超える高用量・長期投与では重篤な肝障害のリスクがあり(添付文書)、また日本で一般的に処方される量では鎮痛効果が不十分と指摘されることもあります。薬剤選択は必ず患者の状態と禁忌を確認の上で行ってください。
薬の選択肢が増えると、ケアの幅が広がります。
▶ アセトアミノフェン錠のくすりのしおり(RAD-AR)|視床・大脳皮質への痛覚閾値上昇作用が明記された公式患者向け情報
治療前の一言が、閾値を変える。これは科学的に正しい表現です。
前述の通り、不安・恐怖・予期不安は疼痛閾値を低下させます。逆に「共感・理解・安心感」は閾値を上昇させる因子として知られています(参考:公益社団法人日本看護科学学会)。つまり、歯科医師・歯科衛生士が治療前に行うコミュニケーションは、単なる「安心させるための礼儀」ではなく、患者の疼痛感受性を実際に変える医療行為です。
具体的に有効とされているアプローチを整理すると、次のようになります。
これが基本です。
特に再初診の患者(以前に別院で痛い思いをした経験がある患者)は、問診票からその兆候が読み取れます。「過去に歯科治療で怖い思いをしましたか?」という問いへの「はい」は、「今この患者の疼痛閾値は低下傾向にある可能性が高い」というサインです。そのような患者には、特に丁寧な事前説明と進行中の声がけが、麻酔の追加より先に行うべき「閾値上昇のための処置」と言えます。
コミュニケーションも鎮痛処置のひとつです。
▶ 疼痛閾値を上げる因子の一覧(公益社団法人日本看護科学学会)|疼痛閾値の変動要因を学術的にまとめた信頼性の高い情報源
スローテンポの音楽を流すだけで、患者の疼痛閾値は統計的に上昇します。
松本歯科大学の研究(松本歯科大学リポジトリ)では、歯科受診患者を対象に音楽の種類と疼痛閾値の変化を測定したところ、スローテンポの音楽を聴かせると、部位に関係なく知覚閾値・疼痛閾値が上昇したことが証明されています。音楽が自律神経系に作用し、副交感神経を優位にすることで心拍数が低下し、脳内のエンドルフィン分泌が促進されるためと考えられています。同研究では「歯科医院を受診する77%が何らかの不安を持っている」というデータも示されており、院内BGMの重要性は見過ごされてきた分野です。
音楽の効果をより高めるポイントとして、以下が挙げられています。
これは使えそうです。
ただし、音楽は単独で痛みを完全にブロックするものではありません。あくまでも「閾値の低下を抑え、閾値を上げる補助ツール」として位置づけるのが正確です。麻酔の代替にはなりませんが、局所麻酔の効果を最大限に発揮させるための「環境整備」として院内BGMの選択を見直すことは、設備投資ゼロで実行できる有効な閾値管理策と言えます。
院内の音環境を整えることも、立派な疼痛コントロールです。
歯科ユニットの稼働音・ドリル音・サクション音は、それ自体が不安を増幅させる刺激です。これらの音を「キャンセル」してくれるBGMの選択は、音による疼痛閾値の上昇という科学的エビデンスに基づいた取り組みとして院内に導入する価値があります。スタッフの環境改善にも繋がる点も、継続しやすい理由の一つです。
▶ 松本歯科大学リポジトリ|「音による自律神経活動と疼痛閾値の変化」研究論文(松本歯科大学)