歯痛の5.3%は歯に原因がなく、年間68万本もの歯が誤って治療されています。
急性疼痛は「なぜ痛むのか」というメカニズムの視点から整理すると、臨床判断が格段に明確になります。国際疼痛学会(IASP)の定義では、痛みとは「実際の、または潜在的な組織損傷に関連した不快な感覚的・感情的経験」とされています。この定義が示すように、痛みは純粋に身体的なものだけではありません。
現在の疼痛医学では、急性疼痛を含む痛みを神経メカニズムの観点から3種類に分類します。
| 分類 | メカニズム | 歯科における代表例 |
|---|---|---|
| 侵害受容性疼痛 | 末梢の侵害受容器が活性化されて生じる | 歯髄炎、根尖性歯周炎、歯根膜炎 |
| 神経障害性疼痛 | 神経自体の損傷・疾患から生じる | 三叉神経痛、外傷後三叉神経障害性疼痛 |
| 痛覚変調性疼痛 | 組織・神経損傷なしに中枢での痛み処理が変調して生じる | 舌痛症(口腔灼熱痛症候群)、持続性特発性歯痛 |
歯科で特に見落とされがちなのが、侵害受容性疼痛が引き起こす「関連痛」です。関連痛とは、痛みの原因部位とは別の場所に感じる痛みのことで、咀嚼筋・上顎洞・心臓などの遠隔部位の異常が「歯が痛い」という訴えにつながります。咬筋や側頭筋にできたトリガーポイント(策状硬結)が上下顎の歯に関連痛を引き起こすケースは、日常臨床でも少なくありません。
これが基本です。
2017年にIASPが提唱した「痛覚変調性疼痛(nociplastic pain)」は第3の痛みとして注目されており、日本では2021年に日本痛み関連学会連合が正式な訳語を採用しました。組織ダメージや神経損傷が見当たらないのに痛みが持続する患者に対して、従来の侵害受容性疼痛の枠組みだけで対応しようとすると、不要な根管治療や抜歯という過剰治療につながるリスクがあります。研究データによると、歯痛の5.3%は非歯原性歯痛であり、日本では年間約68万本もの歯が誤った治療を受けているとも推計されています。
3分類を理解するだけで、臨床の精度が変わります。急性歯痛を訴える患者に対して「う蝕・歯周病・歯髄炎」だけを探すのではなく、神経障害性・痛覚変調性の可能性も念頭に置いた鑑別がこれからの標準的な歯科臨床の姿です。
参考:歯科医療従事者向けに急性疼痛の関連因子・分類・鑑別のポイントを詳述した専門解説
急性疼痛の強度や持続性には、身体的な炎症の程度だけでなく、患者の心理状態が深く関与しています。意外に感じるかもしれませんが、これは感情の問題ではなく、神経生理学的に裏付けられた事実です。
不安・恐怖感は、下垂体—副腎軸を活性化し、痛みの経験を増幅させることが知られています。歯科治療に対する強い不安を抱える患者では、局所麻酔の効果が低下するケースも報告されており、単なる「気持ちの問題」として片付けられないのが現状です。成人の15%前後が歯科治療恐怖症の傾向を持つとされており、日本国内では約500万人がこれに該当するという推計もあります。
🔑 心理的関連因子として特に臨床で重要なものを以下に整理します。
これは使えそうです。
慢性非顔面痛の既往がある患者や、強い恐怖心を持つ患者では、脳の神経生理状態が変化して痛みを知覚しやすくなっていることが、歯科医師向けのMedscape痛み管理ガイドで指摘されています。つまり、疼痛管理において患者の情動状態とストレスレベルを評価し、それに応じたアプローチをとることが、単に麻酔薬を適切に使うことと同じくらい重要だということです。
実際の臨床行動として、治療前のブリーフィング(今から行う処置の説明)、温かみのある院内環境の整備、そして必要に応じた笑気鎮静や行動変容技法(脱感作・リラクゼーショントレーニング)の活用が推奨されます。不安を軽減することで、患者の疼痛閾値を大幅に上げられることが実証されています。患者の痛みは生物学的な数値だけでは測れません。
参考:急性疼痛管理における心理的・社会的因子の影響について詳述された国際ガイドラインの日本語訳
急性疼痛管理:学問的証拠 第5版(日本術後痛学会)
急性疼痛が放置されると、神経系に段階的な変化が起こります。これが「末梢感作」と「中枢感作」です。この2つのメカニズムを理解しておくことは、歯科における疼痛管理の質を大きく左右します。
まず末梢感作について説明します。組織に炎症が起きると、プロスタグランジンやブラジキニンなどの炎症性メディエーターが放出されます。これらが侵害受容器の閾値を下げるため、通常では痛みを感じないような軽い刺激でも痛みとして感知されるようになります。歯髄炎で「冷たいものがしみる」だけでなく「温かいものでも痛む」ようになる現象がこれにあたります。
つまり閾値の低下が急性疼痛を増悪させます。
次に問題になるのが中枢感作です。末梢からの痛み刺激が繰り返し入力されると、脊髄後角の神経細胞が興奮しやすい状態(ワインドアップ現象)になります。この段階では、痛みの原因を局所で除去しても症状が残ることがあります。不可逆性歯髄炎の患者で下歯槽神経ブロックの効果が不十分なことがある理由のひとつも、この中枢感作の関与が挙げられます。
歯科臨床でこのメカニズムが特に問題になるのは、神経障害性疼痛の発症です。根管治療・下顎智歯抜歯・インプラント埋入・伝達麻酔による神経損傷などの歯科処置が、外傷後三叉神経障害性疼痛のトリガーになることが明らかになっています。これらの処置では機械的損傷だけでなく、炎症や歯科用薬剤の漏洩、血管収縮剤による虚血といった化学的ダメージでも神経障害性疼痛が引き起こされ得ます。
中枢感作の観点から、急性期の疼痛を「いたずらに放置しない」ことが重要です。適切なタイミングで介入し、侵害入力を早期に遮断することが、慢性疼痛への移行を防ぐための最善策となります。早期介入が原則です。
参考:歯科治療後の神経障害性疼痛の発生メカニズムと、中枢感作・末梢感作の解説
疼痛の診断と処置。歯科臨床で役立つ症例と術式の判断ポイント(1D)
急性疼痛の関連因子を特定するには、まず「痛みの強さ」を客観的に評価することから始まります。しかし見落とされがちなのが、強度の数値化だけに留まらず、痛みの性状・発症様式・増悪・軽快因子・時間的経過を丁寧に把握することの重要性です。
歯科臨床でよく用いられる疼痛評価スケールは以下の3種類です。
| スケール名 | 方法 | 適した場面 |
|---|---|---|
| NRS(数値評価スケール) | 0(痛みなし)〜10(最悪の痛み)で口頭回答 | 成人・口頭コミュニケーションが可能な患者 |
| VAS(視覚的アナログスケール) | 10cmの直線上に自分の痛みを印で示す | 研究・精度の高い定量評価が必要な場面 |
| フェイススケール | 表情イラストから選択 | 高齢者・認知機能低下・小児 |
数値だけ記録すればOKではありません。NRSで「8」という値が得られても、その背景に歯髄炎の炎症痛があるのか、心理的増幅があるのか、筋筋膜痛の関連痛があるのかによって、対応は全く異なります。
急性疼痛の関連因子を洗い出すための問診では、以下の情報が特に有用です。
特に「局所麻酔で痛みが消えるかどうか」の確認は、非歯原性歯痛を疑う上で非常に重要です。持続性特発性歯痛や痛覚変調性疼痛では局所麻酔への反応が不明瞭で、プラセボ効果が強く出るため、注意が必要です。問診の精度が診断の精度を決めます。
参考:歯科臨床における疼痛評価と痛み管理の標準的アプローチをまとめた医療情報サイト
急性疼痛の関連因子が特定できたら、次のステップはそれに対応した疼痛管理です。ここで重要なのが、現代の疼痛管理の主流となっている「多角的鎮痛(マルチモーダル鎮痛)」の考え方です。これは単一の鎮痛薬に頼るのではなく、作用メカニズムの異なる複数の手段を組み合わせることで、より低用量で高い鎮痛効果を得ながら副作用を最小化する戦略です。
歯科術後の急性疼痛においては、イブプロフェン400mgやジクロフェナク50mgなど複数のNSAIDsが痛みを50%以上軽減することが35件のコクランレビューを含む系統的研究で示されています。とりわけエトリコキシブ120mgやナプロキセン500mgは8時間以上の効果持続が確認されており、作用時間の観点でも選択の幅があります。NSAIDsとアセトアミノフェンの使い分けが条件です。
一方、実際の臨床で歯科医師が直面する難しさは「鎮痛薬の選択」だけではありません。急性疼痛の慢性化を防ぐには、身体的治療に加えて心理社会的側面への同時対応が求められます。
特に見落とされやすいのが「慢性疼痛への移行を未然に防ぐ視点」です。急性術後疼痛の不十分な管理が慢性疼痛への移行リスクを高めることは、APMSE第5版にも明記されています。危険因子の多くが心理的・社会的・文化的領域にあるとされており、歯科従事者が生物医学的アプローチだけに偏ることの危うさが指摘されています。
抜歯後の歯の痛みは通常1〜2日で消失しますが、一部の患者ではそれ以上の期間オピオイドが使用され続けるケースもあります。米国では即時放出型オピオイドの約12%を歯科医師が処方していることがデータで示されており、処方量の適切な制限と患者教育が求められます。オピオイド依存リスクの管理は必須です。
最終的には、急性疼痛の関連因子を多角的に把握することが、患者一人ひとりに合った疼痛管理の出発点です。炎症・神経・心理・社会的背景のすべてに目を向けることで、過剰治療・不十分な鎮痛・慢性疼痛への移行という三重のリスクを同時に軽減できます。
参考:術後急性疼痛の慢性化リスク因子および多角的鎮痛の推奨エビデンスについての詳細資料
慢性疼痛治療ガイドライン(厚生労働省)