歯科で抗生物質を処方するとき、授乳を止めなければ赤ちゃんへの影響が出ると思っている患者さんの9割は、実は断乳しなくてよいケースです。
授乳中の患者さんに抗生物質を処方する際、「何時間あければよいか」という質問を受けることは歯科臨床でも珍しくありません。まずは移行の仕組みから整理しましょう。
服用した薬は消化管から吸収されて血液に入り、その後ごく一部が母乳へ移行します。一般的に、母乳中の薬の濃度が最高になるのは服用後2〜3時間後です。つまり、そのピーク時間帯に授乳することを避けることが、赤ちゃんへの薬の移行を最小限に抑えるポイントになります。
実際の移行量はどれくらいでしょうか。多くの薬において、母乳に移行する量は母体投与量の1%以下と報告されています(一宮市立市民病院薬剤局, 2023)。さらに赤ちゃんが母乳を通じて体内に吸収する量はそこからさらに減ります。移行量の指標として使われるRID(相対的乳児薬物摂取量)は「乳児薬物摂取量÷母親の薬物摂取量×100」で計算され、一般的にRIDが10%以下であれば安全に授乳を続けられるとされています。
結論はシンプルです。授乳直後に薬を服用し、次の授乳まで2〜3時間(できれば3〜4時間)あけること。これだけで母乳中の薬の濃度はピーク後の下降期に入り、赤ちゃんへの移行をさらに抑えられます。
服用後5〜6時間が経過すると、ほとんどの一般的な薬剤では母乳中への移行量は半分以下まで急速に低下します。これが「4〜5時間あける」という説明の根拠です。
参考:国立成育医療研究センター「授乳中のお薬Q&A(抗菌薬)」では、歯科処方の抗生物質について授乳中止の必要はないと明記されています。
国立成育医療研究センター|授乳中のお薬Q&A(歯科・抗菌薬の項目あり)
歯科医療従事者として「どの抗生物質なら授乳中でも処方できるか」を正確に把握しておくことは、患者への安心感につながります。ここが肝心です。
歯科では主にペニシリン系とセフェム系の抗菌薬が処方されます。これらは赤ちゃん自身の感染症治療にも使われるほど安全性が確立された薬剤です。国立成育医療研究センターが公表する「授乳中に安全に使用できると考えられる薬」のリストには、以下のものが含まれています。
| 成分名 | 代表的な商品名 | 系統 | RID目安 |
|---|---|---|---|
| アモキシシリン | サワシリン・パセトシン | ペニシリン系 | 約1%以下 |
| アンピシリン | ビクシリン | ペニシリン系 | 約0.5% |
| セファレキシン | ケフレックス | セフェム系 | データあり(低値) |
| セファゾリン | セファメジン | セフェム系 | 約0.8% |
| セフトリアキソン | ロセフィン | セフェム系 | 約4.2% |
| クラリスロマイシン | クラリス | マクロライド系 | 約2.1% |
| アジスロマイシン | ジスロマック | マクロライド系 | 約5.9% |
特によく処方されるアモキシシリン250mg×1回を例に数字で見てみましょう。体重5kgの乳児が1日750ml哺乳した場合、母乳を通じて摂取するアモキシシリンの量は0.118mg。同じ体重5kgの乳児への治療量(100mg/日)のわずか0.118%です(dental-oral-surgery.com, 2021)。これが実態です。
一方で注意が必要な薬剤もあります。テトラサイクリン系(ミノマイシンなど)やニューキノロン系(クラビットなど)は歯科でも処方されることがありますが、小児への副作用リスクや母乳移行率の問題から、授乳中は原則として代替薬を優先すべきとされています。どうしても必要な場合は2週間程度であれば許容されるという見解もありますが、歯科処方の短期使用では基本的にペニシリン系・セフェム系で対応できます。
よく処方されるフロモックス(セフカペンピボキシル)は国立成育医療研究センターの表に記載がない点が気になる方もいるかもしれませんが、これは「データがないから危険」ではなく「研究報告がないため記載保留」という意味です。母乳移行はほとんどなく、短期使用では問題になる可能性は低いと考えられています。
参考:授乳中に安全に使用できる抗菌薬の詳細リストは国立成育医療研究センターで確認できます。
国立成育医療研究センター|授乳中に安全に使用できると考えられる薬(薬効順リスト)
歯科で「授乳中なので薬は飲めません」とおっしゃる患者さんは今でも少なくありません。その背景には、薬の添付文書への誤解があります。これは見逃せない問題です。
2019年以前の添付文書には「授乳婦への投与は避けることが望ましいが、やむを得ず投与する場合は授乳を避けさせること」という記載が一般的でした。ところが2019年の添付文書新記載要領の運用開始以降、この記載様式は大きく変わっています。現在は「治療上の有益性及び母乳栄養の有益性を考慮し、授乳の継続又は中止を検討すること」という表現が基本となりました(一宮市立市民病院薬剤局, 2023)。つまり、母乳に移行するかどうかではなく、暴露量を考慮して総合的に判断するという方針に変わったのです。
この変化を知らないまま、古い感覚で「薬を出すなら断乳してください」と言ってしまうことは、患者さんに不必要な負担をかけることになります。
適切な説明の流れとしては、まず「処方する薬は授乳中でも使用できるものです」と明確に伝え、次に「万が一心配な場合は、薬を飲んだ直後に授乳し、次の授乳まで3〜4時間あけてください」と具体的な対処法を案内するとよいでしょう。
患者さんが「それでも不安」という場合には、事前に搾乳しておいたものを薬のピーク時間帯(服用後2〜3時間)に与え、ピーク後に授乳を再開するという方法も選択肢として提示できます。
参考:授乳中の薬物治療に関する詳細は城西大学の解説ページが読みやすくまとまっています。
城西大学JOSAI LAB|授乳婦が薬を飲んでも大丈夫?避けるべき薬と注意点を紹介
「授乳直後に服用して3〜4時間あける」とひとことで言っても、実際のスケジュール管理は簡単ではありません。新生児は約3時間ごとに授乳が必要で、「常に授乳直後」を守るのが難しい場面もあります。ここは現実的なアドバイスが求められます。
まず抗生物質の1日の服用回数ごとに考え方が変わります。
もう一点、見落としがちな配慮があります。乳児の月齢です。生後1〜2か月くらいまでは肝臓・腎臓の機能が未発達で、薬を代謝・排泄する能力が低い状態にあります。この時期は万一薬が体内に蓄積した場合に影響が出やすいため、より慎重なタイミング調整が推奨されます。一方、生後6か月以上になると離乳食も始まり、母乳摂取量が減るため薬剤への影響はさらに小さくなります。
患者さんへの伝え方として実用的なのは「授乳したらすぐ薬を飲む→3〜4時間あけてから次の授乳」という1文で伝えることです。細かい説明より、この1アクションを繰り返す習慣として覚えてもらうほうが実践されやすいです。
参考:大阪南医療センター(独立行政法人国立病院機構)も「授乳直後に薬剤を服用し、次の授乳機会との間隔をあけることで、薬剤の種類に関わらず赤ちゃんへの移行をより減らせる」と案内しています。
独立行政法人国立病院機構 大阪南医療センター|薬剤師(授乳中の薬剤について)
授乳中の患者に対して歯科で処方するのは抗生物質だけではありません。鎮痛薬(消炎鎮痛剤)や局所麻酔についても正確な情報を持っておくことが患者対応の質を高めます。
鎮痛薬については、歯科でよく使われるロキソプロフェン(ロキソニン)もジクロフェナク(ボルタレン)も、国立成育医療研究センターが「授乳中に安全に使用できると考えられる薬」として公表しています。血漿蛋白結合率が高いため母乳への移行率が低く抑えられているためです。これらよりもさらに安全性が高いとされるアセトアミノフェン(カロナール)は、乳児への直接投与も行われるほど安全性が確立されており、授乳中の使用でも信頼性が高い選択肢です。
局所麻酔については、歯科での通常使用(リドカイン)であれば母乳への移行は極めて微量です。局所麻酔後の授乳は基本的に直ちに再開可能とされており、「麻酔が切れるまで授乳を控えてください」という説明は医学的根拠のある指示ではありません。RIDが10%を大きく下回ることがわかっています。
ただし、ロキソニン総合かぜ薬(コデイン配合タイプ)のような複合成分の市販薬は別の話です。コデイン配合薬は授乳中に服用した場合、24時間以上あけてから授乳を再開するよう指定されているものもあります。歯科処方薬ではなく市販薬を患者さんが自己判断で追加服用していることがあるため、問診時にこの点も確認する習慣をつけておくと安全です。
患者さんから「飲んでいる薬をリストにして持ってきてください」とお願いするか、来院時に服用中の市販薬・サプリメントを含めたヒアリングを行うことが、授乳中患者への安全管理の基本になります。
参考:八島歯科クリニックによる歯科で使用する薬の授乳安全性まとめが参考になります。
八島歯科クリニック|授乳中に歯科で使えるお薬(安全な薬のリストと解説)