網トレーは印象撤去時に変形リスクが高い。
印象用トレーは、印象材を口腔内に挿入し補強する役割を担う器具です。歯科診療において補綴物製作の成否を左右する重要な道具といえます。
トレーの基本構造には、主に網トレーとリムロックトレーの2種類があります。網トレーは金属板をアミ状に打ち抜いた構造で、印象材が網目を通過して強固に保持される仕組みです。印象材との接触面積が大きいため保持力に優れていますが、構造上の問題として撤去時に変形しやすい弱点があります。口腔内から取り出す際に力がかかると、網目部分がたわみ、採得した印象の寸法精度が狂うリスクが高まるのです。
一方リムロックトレーは、トレー辺縁内面に突起(リム)を設けた構造になっています。この突起により印象材が機械的に保持され、トレー全体が堅牢な設計のため変形リスクを最小限に抑えられます。辺縁のリム構造は印象撤去時の変形防止に特に効果的で、精密な補綴物製作が求められる症例では第一選択となります。メッキ処理の改良により耐蝕性も向上しており、長期使用にも耐えうる品質です。
トレーの材質も重要な選択要素です。ステンレス製やアルミニウム製の金属トレーは強度と耐久性に優れ、オートクレーブ滅菌が可能なため感染対策の面でも安心です。金属製トレーは厚みがあり変形しにくいため、高精度な印象採得が求められる自費診療では標準的な選択肢となっています。
印象材の保持力が高いということは何を意味するのでしょうか?保持力が不足すると、印象撤去時にトレーから印象材が剥離し、採り直しが必要になります。1回の印象採得にかかる時間は準備から撤去まで約10~15分ですから、失敗すると患者の診療時間が倍増し、予約枠を圧迫する事態になりかねません。リムロックと保持孔の組み合わせで印象材を確実に固定することが、診療効率を守る基本です。
既製トレーのサイズ展開は、一般的にXXSからXXLまで6~7段階が用意されています。適切なサイズ選択ができないと、印象材の厚みが不均一になり、硬化時の収縮ひずみが大きくなって寸法精度が低下します。
トレー試適時には、トレー辺縁と歯列・歯肉との距離を確認します。理想的な印象材の厚みは2~3mm程度とされており、トレーが歯列に近すぎると印象材が薄くなりすぎて破折リスクが高まり、遠すぎると印象材が厚くなって硬化時のひずみが増大します。上顎では口蓋部、下顎では舌側の空間を確認し、トレーが組織に接触していないか、逆に過度に離れていないかをチェックすることが基本です。
サイズ選択ミスは材料ロスに直結します。印象材1回分のコストはアルジネート印象材で約200~300円、シリコーン印象材では約1,000~2,000円かかります。再印象が必要になれば、これらの材料費に加えて技工士への模型製作依頼が重複し、1症例あたり数千円のコスト増となります。年間で計算すると、印象採得の失敗率を5%から1%に下げるだけで、材料費だけでも10万円以上の削減効果が見込まれます。
トレー辺縁の形態も精度に影響します。辺縁に丸みがある設計は、患者の口唇や頬粘膜を傷つけにくく、印象採得時の不快感を軽減します。患者が緊張して筋肉を硬直させると、正確な辺縁形態が採得できないため、トレーの形状設計は患者の協力を得るうえでも重要な要素です。
試適で問題が見つかった場合、トレー辺縁をバーで削合調整するか、別サイズのトレーに変更します。この判断を誤ると印象採得そのものが失敗するため、複数サイズのトレーを常備しておくことが推奨されます。
印象材とトレーの組み合わせは、症例の要求精度によって使い分けます。アルジネート印象材は安価で操作性に優れ、保険診療での研究用模型製作や暫間補綴物製作に広く使用されますが、硬化後の寸法変化が大きく、時間経過とともに脱水または吸水により変形する特性があります。印象採得後120秒以上流水洗浄し、速やかに石膏を注入する必要があります。
シリコーン印象材は寸法精度が高く、硬化後の変形が極めて少ないため、自費診療のクラウン・ブリッジ製作や精密義歯製作で選択されます。ただし材料費が高価で、1回の印象採得に1,000~2,000円程度かかるため、保険診療では使用が制限されます。シリコーン印象材は疎水性のため、印象面に水分や唾液が付着していると細部の再現性が低下します。印象採得前の十分な乾燥と、必要に応じた歯肉圧排が不可欠です。
寒天・アルジネート連合印象法は、シリコーン印象材の代替として保険診療でも使用可能な精密印象法です。寒天印象材をシリンジで支台歯周囲に注入し、アルジネート印象材を盛ったトレーで印象採得する方法で、寒天の高い流動性とアルジネートの操作性を組み合わせた合理的な手法といえます。撤去力がシリコーン印象材より小さく、動揺歯がある症例でも比較的安全に使用できます。
印象材の保持には、トレーへの接着剤塗布が推奨されます。特にシリコーン印象材は機械的保持だけでは不十分な場合があり、専用接着剤を塗布することでトレーからの剥離を防ぎます。接着剤は塗布後2~3分乾燥させる必要があり、この工程を省略すると印象撤去時にトレーから印象材が外れるトラブルの原因になります。
個人トレーは、患者の口腔形態に合わせて製作するオーダーメイドのトレーです。既製トレーで採得した概形印象の模型上で、レジンや光重合レジン、熱可塑性樹脂を用いて製作します。義歯製作においては、精密印象採得の前段階として個人トレー製作が標準的な工程となっています。
個人トレーの最大のメリットは、印象材の厚みを薄く均一にコントロールできる点です。印象材の厚みが均一であれば、硬化時の収縮ひずみが最小化され、寸法精度の高い模型が得られます。特に無歯顎症例では、顎堤の形態が個人差が大きく、既製トレーでは適合が不十分になりやすいため、個人トレーが必須となります。顎堤が低い症例ほど、わずかなトレーのたわみや過延長が辺縁封鎖を妨げ、義歯の吸着不良や疼痛の原因になるのです。
保険診療と自費診療では、トレーの使い分けに明確な差があります。保険診療では既製トレーとアルジネート印象材で1回の印象採得を行うことが一般的ですが、自費診療では既製トレーで概形印象を採得後、個人トレーを製作し、シリコーン印象材で精密印象を行う2段階法が標準です。この手順の違いが、完成する補綴物の適合精度と長期的な予後に大きく影響します。
個人トレー製作には、模型製作と技工作業の時間が必要で、通常1~2日の工程となります。このため診療回数が1回増加し、患者の来院負担と医院側の予約管理の手間が増えます。しかし義歯の適合精度向上により、完成後の調整回数が減少し、患者満足度が向上するため、長期的にはメリットが大きいといえます。
個人トレー製作のコストは、材料費と技工料を合わせて1症例あたり約2,000~3,000円です。既製トレーのみの診療と比較すると追加コストが発生しますが、完成後の再製リスクを考慮すれば、投資対効果は十分に見込めます。無歯顎義歯の再製率は、個人トレー使用の有無で5~10%程度の差があるとされており、再製1回のコストは数万円に及ぶため、初回から適切な工程を踏むことが重要です。
印象用トレーは、口腔内の唾液や血液に直接接触するため、使用後の適切な消毒・滅菌処理が感染対策上必須です。スポルディングの分類では、印象用トレーはセミクリティカル器材に分類され、高水準消毒または滅菌が推奨されます。
金属製の既製トレーは、オートクレーブ滅菌(高圧蒸気滅菌)が可能です。121℃・2気圧で15分間、または134℃で3~5分間の滅菌処理により、B型肝炎ウイルス(HBV)やC型肝炎ウイルス(HCV)、HIVなどの病原体を完全に不活化できます。オートクレーブ滅菌は、滅菌の確実性と操作の簡便性から、歯科診療所での標準的な方法となっています。
ディスポーザブルトレーは、1回使用後に廃棄する使い捨てタイプで、感染対策の観点から近年普及が進んでいます。プラスチック製で軽量、患者ごとに新品を使用するため交差感染のリスクがゼロになります。ディスポトレーのコストは1枚あたり約100~300円で、金属トレーの滅菌処理にかかる人件費や光熱費、滅菌バッグ代を考慮すると、トータルコストではほぼ同等か、場合によっては経済的になります。
ディスポトレーにはABS樹脂製やポリプロピレン製があり、印象材保持のための多数の維持孔が設けられています。日本人の顎形態に合わせた設計で、辺縁部に丸みを持たせて患者の不快感を軽減する工夫が施されています。取り外し可能なハンドルや、咬合採得用のバイトレストが付属する製品もあり、用途に応じた選択が可能です。
印象体(印象材が硬化したもの)の消毒も重要です。印象体は加熱滅菌ができないため、薬液による消毒を行います。採得した印象体は流水下でよく洗浄後、0.1~1.0%次亜塩素酸ナトリウム溶液に15~30分間浸漬、または2~3.5%グルタラール溶液に30~60分間浸漬します。アルジネート印象材の場合、次亜塩素酸ナトリウムによる長時間浸漬は寸法変化を引き起こすため、浸漬時間を厳守する必要があります。
消毒薬の残留は石膏模型の硬化不良や表面性状悪化の原因になるため、消毒後は十分にすすぎを行います。すすぎが不十分だと、技工物の精度低下につながるため注意が必要です。
個歯トレー法は、クラウンやブリッジなどの補綴物製作において、支台歯単独の精密印象を採得する方法です。患者個別に製作した小型トレー(個歯トレー)を支台歯に装着し、シリコーン印象材で印象採得します。
個歯トレーの最大の利点は、支台歯と個歯トレー内面の間隔を一定に保てることです。印象材の厚みを薄く均一にできるため、硬化時の収縮ひずみが最小化され、高精度な模型が得られます。特に支台歯が孤立している症例や、隣在歯にアンダーカットがある症例では、個歯トレー法により印象撤去時の変形を防止できます。
個歯トレーの製作手順は、まず支台歯形成後に概形印象を採得し、作業模型を製作します。模型上で光重合レジンやパターンレジンを用いて個歯トレーを成形し、支台歯の形態に合わせて辺縁を調整します。個歯トレー外側にはリムーバルノブ(取り外し用の把持部)を付与し、印象撤去時の操作性を高めます。
個歯トレー法では、印象材専用の接着剤を個歯トレー内面に塗布します。シリンジを用いてライトボディタイプのシリコーン印象材を個歯トレー内に満たし、支台歯に圧接します。その上から全顎トレーにヘビーボディタイプを盛り、一体で印象採得する連合印象法が一般的です。この方法により、支台歯の精密印象と周囲歯列・咬合関係を同時に記録できます。
個歯トレー法の問題点として、製作に時間と手間がかかる点が挙げられます。個歯トレー1本の製作時間は約30~60分で、技工士の技術と経験に依存します。ブリッジのように支台歯が複数ある場合、個歯トレーも複数製作する必要があり、コストと時間が増大します。そのため症例によっては、個歯トレー法を省略し、既製トレーによる全顎印象法を選択することもあります。
個歯トレー法の適応症例は、高精度が求められる自費診療のセラミッククラウンや、ブリッジのポンティック部の形態再現が重要な症例です。保険診療の金属冠では、既製トレーによる印象採得でも臨床的に許容される精度が得られるため、必ずしも個歯トレー法は必須ではありません。症例の要求精度と、患者の経済的負担、診療効率のバランスを考慮して選択することが重要です。