顎関節症と思っていた痛みの原因が、実は歯でも関節でもなく咀嚼筋にあった——そんなケースが、今日も全国の歯科医院で繰り返されています。
「顎が痛い」「口が開きにくい」という訴えを持って来院する患者の大半は、顎関節そのものの問題ではなく、咀嚼筋に生じた筋筋膜性疼痛症候群(MPS:Myofascial Pain Syndrome)が原因である可能性があります。デンタルダイヤモンド誌の報告によると、顎関節症患者の約8割がMPS関連の筋膜性疼痛を持つとされています。これは決して珍しい数字ではありません。
MPS とは、骨格筋の中に形成される「トリガーポイント(TP)」と呼ばれる圧痛点が、離れた部位に関連痛を引き起こす病態です。咀嚼筋の代表格である咬筋や側頭筋にTPが形成されると、その痛みは上下の臼歯や顎関節周囲に及びます。患者は「歯が痛い」「顎がだるい」という訴えで来院するため、歯科医師が第一に対応することになります。
MPS を複雑にしているのが、X線・CT・MRIといった画像検査で異常を確認できない点です。骨や関節に明らかな変化がないため、多くのケースで「検査上は問題なし」と判断されてしまいます。エコー(超音波)検査の普及により筋膜の肥厚や癒着が見えるようになったのは比較的最近のことで、それまでは「原因不明の痛み」として扱われてきた歴史があります。
重要なのは、MPS の痛みはブラキシズム(食いしばり・歯ぎしり)と密接に関係しているという点です。ブラキシズムによって咀嚼筋に繰り返し過負荷がかかると、筋硬結が生じ、血流障害を起こした筋肉の中にTPが形成されます。歯科領域ではブラキシズムを診る機会が多いだけに、MPSへの理解は歯科従事者にとって必須の知識といえます。
MPS は全身のどこの筋肉にも起こりえます。ただし歯科臨床で特に問題になるのは咬筋・側頭筋・翼突筋です。
デンタルダイヤモンド「歯科医師 筋膜性疼痛の捉え方」(顎関節症の約8割がMPS関連という報告を含む専門誌Q&A)
MPSの名医を探すとき、多くの歯科従事者は「顎関節症の専門外来があるかどうか」を判断基準にします。しかしそれだけでは不十分です。名医かどうかを見極めるには、より具体的な診断力の有無に注目する必要があります。
まず第一の基準は、「筋触診を正確に行えるか」です。MPSの診断において最も重要なのは、咬筋・側頭筋などのTPを特定するための徒手的な筋触診です。MSDマニュアルにも明示されているように、MPSの診断は臨床的評価、つまり問診と触診が軸となります。触診を省略し、すぐに画像検査へ進む医療機関は要注意です。
第二の基準は、「エコー(超音波)を用いた評価ができるか」です。近年、超音波機器の活用により筋膜の肥厚・癒着をリアルタイムで確認できるようになりました。エコーガイド下でのTPへのアプローチは、治療精度を大きく高めます。エコーを使いこなせる歯科医師・ペインクリニック医師は、MPSへの対応力が高いといえます。
第三の基準は、「非歯原性歯痛(非歯原性疼痛)の鑑別診断経験があるか」です。これが最も重要です。MPSによる関連痛が歯に出ると、患者は「虫歯のような痛み」を訴えます。この段階で歯原性疼痛と誤診してしまうと、根管治療や抜歯という取り返しのつかない処置につながりかねません。非歯原性歯痛の診療ガイドラインに精通し、診断的局所麻酔を活用して疼痛の由来を特定できる医師が真の名医といえます。
つまり名医の条件は「触診・エコー・鑑別診断」の3点セットです。
MSDマニュアル「顎関節の筋筋膜性疼痛症候群の症状と徴候」(診断基準・治療方針の国際的な医学リファレンス)
MPSを見逃した場合に何が起きるか。これが歯科医従事者にとって最も知っておくべき「デメリット」です。
口腔顔面領域の臨床統計によると、関連痛を主訴として来院した患者の54%が関連痛を持ち、そのうち49.6%の関連痛部位が「歯」であったと報告されています(鶴見大学歯学部附属病院・山口らの症例報告より)。つまり、来院患者の約半数がMPS由来の関連痛を「歯の痛み」として感じているという現実があります。
歯科治療では、患者が「この歯が痛い」と指差せば、その歯を中心に診査・治療が進みます。しかしMPS由来の場合、その歯には虫歯も歯周病も歯髄炎もありません。X線画像も正常です。それでも患者の訴えに応じて根管治療(抜髄)を行ってしまうと、歯の神経を失っただけで痛みは消えません。さらに根管治療という侵害刺激が加わることで、末梢および中枢感作が進み、今度は「神経障害性疼痛」という別の慢性痛に移行してしまうリスクがあります。
この問題は深刻です。実際の症例として、58歳の男性患者が根管治療を3回繰り返したにもかかわらず持続する歯痛を4年間抱え続けた、という事例が報告されています。診査の結果、右側咬筋に明らかなMPSのTPが確認され、それが歯の痛みとして現れていた可能性が高いとされました。MPSを早期に発見していれば、この患者の歯の神経を3回も失うことはなかったかもしれません。
MPSの早期発見が、歯を守ることに直結します。
こうしたリスクを回避するために、まず「原因不明の歯痛」を訴える患者には必ず咀嚼筋の触診を行い、TPの有無を確認する習慣が求められます。咬筋のTPを5秒程度圧迫し、その際に患者が訴える歯痛が再現されれば、MPS由来の関連痛として診断できます。この「再現性」の確認が、誤った歯科処置を防ぐ最初のステップです。
非歯原性歯痛の診療に詳しい専門家への紹介先としては、日本口腔顔面痛学会が公開しているリソースが役立ちます。
日本口腔顔面痛学会「原因不明の歯痛(非歯原性歯痛)について」(筋・筋膜性歯痛の特徴と診断基準の解説)
MPSの治療は大きく4つに分類されます。歯科従事者として知っておくべき治療の全体像を整理します。
①トリガーポイント注射(TPI)
TPに局所麻酔薬(または生理食塩水)を直接注射する方法です。これは診断と治療を兼ねることができる点で非常に優れています。TPへの注射後に患者の歯痛が消失すれば、MPSが原因であることを確定的に診断できます。新潟労災病院の情報によると、トリガーポイント注射は診断にも治療にも活用できる、MPS治療の中核的な手技です。歯科用の局所麻酔薬0.2cc程度の注入でも効果が確認されています。
②ハイドロリリース(筋膜リリース注射)
超音波ガイド下で筋膜の癒着部位に生理食塩水を注入し、筋膜の滑走性を回復させる治療法です。群馬県・木村ペインクリニックの木村裕明医師が開発し、MPS治療における画期的な手技として広まりました。生理食塩水を注入するだけで筋膜が剥がれ、5日程度は痛みが緩和されます。その期間中に積極的にストレッチを行うことで、筋膜の滑走性回復を促します。侵襲が少ない点が大きなメリットです。
③口腔内装置(スプリント)
ブラキシズムが原因のMPSには、スプリントが有効です。上下歯の接触を阻止し、咀嚼筋への過負荷を軽減します。ただしMSDマニュアルでも「一時的な診断ツールとして使用すべき」と明記されており、長期使用には注意が必要です。スプリントだけに頼るのではなく、あくまでTPへの直接的なアプローチと組み合わせることが重要です。スプリントは補助的な役割と考えましょう。
④理学療法・行動療法
咀嚼筋のマッサージ(トリガーポイントマッサージ:TPM)やストレッチ、バイオフィードバック療法が有効です。鶴見大学の症例報告では、5分間のTPMを行うだけで、咬筋のTP圧痛VAS値が36mmから9mmへと大幅に改善しました。患者自身が入浴中に自己マッサージを継続することも再発予防につながります。日常的な食いしばり癖の是正指導も組み合わせると効果的です。
治療は「TPへの直接アプローチ+生活習慣改善」が原則です。
MedicalNote「筋膜性疼痛症候群とはどんな病気?原因が分からなかった痛みの正体」(白石吉彦医師によるハイドロリリースとMPS治療の解説)
MPSは歯科医院内で対応できるケースもありますが、専門医療機関への紹介が必要なケースもあります。その見極めが歯科従事者に求められる独自の判断力です。
紹介が必要なサインとして最も明確なのは、「複数回の根管治療・抜歯を経ても痛みが改善しない患者」です。このような患者にはすでに末梢・中枢感作が進行している可能性があり、歯科的処置を繰り返しても改善しないどころか悪化するリスクがあります。こうした難治性の口腔顔面痛には、口腔顔面痛を専門とするペインクリニックや、大学病院の口腔顔面痛外来への紹介が適切です。
紹介先を探す際の信頼できるデータベースとして、日本筋膜性疼痛研究会(JMPS)が提供する医療機関リストがあります。ここには、MPSの診断と治療に対応できる全国の医療機関・施術所が掲載されており、地域別に検索することができます。また、横浜市立大学が公開している「慢性痛に対応している病院リスト」には、集学的痛み治療が受けられる大学病院・基幹病院が網羅されており、難治例の紹介先として有用です。
一方、紹介するまでもなく歯科医院内で対応できるケースもあります。それは、「ブラキシズムとMPSの関連が明らかで、TPMやスプリントによる保存的治療が有効な初期〜中等度の症例」です。TPMは侵襲がなく5分程度で実施でき、即時的な痛みの改善効果があります。コストも時間もかからず実践できるのが利点です。
紹介の目安は「根管治療を1回行っても改善しない」時点です。
歯科従事者が紹介のタイミングを早めるほど、患者が無用な歯科処置を受けずに済み、慢性痛への移行を防ぐことができます。患者の痛みに疑問を感じたら、躊躇せず専門家へのパスを判断する勇気が、真の患者貢献につながります。
日本筋膜性疼痛研究会(JMPS)「医療機関・施術所情報」(MPSに対応できる全国の専門医療機関データベース)
横浜市立大学「慢性痛に対応している病院リスト」(集学的疼痛治療が受けられる全国の医療機関一覧)