説明に時間をかけるほど、患者さんの治療満足度は下がることがあります。
歯科情報
歯科臨床の現場では、治療前に患者さんへ丁寧に説明し、同意書にサインをもらうことが当たり前の手順として定着しています。これが「インフォームドコンセント(IC)」です。ICは確かに重要なプロセスですが、構造上は「医療者が情報を提供し、患者が決める」という非対称な関係にとどまっています。
SDM(Shared Decision Making/共有意思決定・共同意思決定)は、その一歩先にある概念です。医療者と患者さんの両者が情報・目標・責任を共有しながら、一緒に治療方針を決めるコミュニケーションのプロセスとして定義されています。京都大学大学院の中山健夫先生は「どうしていいか分からないときは、相談して、協力して、一緒に悩んで決めましょう。SDMは困難な意思決定と合意形成を同時に行うコミュニケーションです」と表現しています。
つまり原則は「決定の責任を共有する」ことです。
| 比較項目 | インフォームドコンセント(IC) | 共有意思決定(SDM) |
|---|---|---|
| 情報の流れ | 医療者 → 患者(一方向) | 医療者 ⇄ 患者(双方向) |
| 決定の主体 | 患者(自己責任) | 医療者と患者が協働 |
| 患者の役割 | 同意・不同意を表明 | 価値観・希望を積極的に伝える |
| 目的 | 説明責任の履行 | 最善の選択肢への合意形成 |
歯科領域で考えると、たとえばう蝕が進行した歯に対して「抜歯するか・保存するか」という局面がその典型例です。ICであれば「この状態ではこの治療が必要です、よろしいですか?」となりますが、SDMでは「この2つの選択肢があります。日常生活で何を大切にされていますか?費用面や通院回数の希望はどうですか?」と患者さんの価値観を聞きながら共に最適解を探ります。
歯科医師国家試験出題基準(令和6年版)にも患者の権利の一つとしてSDMが追記されたことからも、これはもはや「知っておくべき教養」ではなく「実践すべきスキル」となっています。
参考:SDMの必須構成要素とThree-talkモデルについての詳細解説
患者さんの意思決定をSDMで支援する|医学界新聞(医学書院)
SDMを実際の診療に組み込むための代表的な手法が「Three-talkモデル(スリー・トーク・モデル)」です。チーム・トーク・オプション・トーク・ディシジョン・トークの3段階で構成されており、この流れを押さえることで歯科臨床にもスムーズに適用できます。
まず「①チーム・トーク」は、患者さんとのパートナーシップを構築するフェーズです。「今日はいくつか選択肢を一緒に考えたいと思います」「どんな小さな疑問も遠慮なく話してください」といった一言を添えるだけで、患者さんは発言しやすい空気を感じます。信頼関係が先です。
次に「②オプション・トーク」では、複数の治療選択肢とそれぞれのメリット・デメリットを提示します。このとき有効なのが「ティーチバック」という確認法です。説明後に「私の説明が分かりやすかったか確認したいので、どんな選択肢があったか教えてもらえますか?」と聞き返してもらうことで、理解のズレを早期に発見できます。患者さんは「わかりましたか?」と聞かれると、理解していなくても「はい」と答えがちです。それでは大丈夫ではありません。
最後に「③ディシジョン・トーク」では、患者さんの価値観や日常生活に基づいた意思決定を支援します。「この選択肢の中で、あなたにとって最も大切なことは何ですか?」という開かれた質問が鍵になります。一度決めた内容でも変更できることや、後日改めて相談できることも必ずセットで伝えてください。
| ステップ | 名称 | 歯科での声かけ例 |
|---|---|---|
| ① | チーム・トーク | 「一緒に選択肢を考えましょう。遠慮なく聞いてください」 |
| ② | オプション・トーク | 「A案とB案があります。それぞれメリット・デメリットをお伝えします」→ティーチバックで確認 |
| ③ | ディシジョン・トーク | 「通院回数・費用・見た目、どれが一番大事ですか?後から変えることも可能です」 |
なお、「SDMは時間がかかる」というのは現場でよく聞く声ですが、実際には2分程度の会話でも実践できる可能性が示されています(Epstein et al.)。Three-talkモデルに沿ったテンプレートの声かけを診療フローに組み込むことで、時間の問題はほぼ解消されます。これは使えそうです。
参考:SDMを実践するための具体的な進め方とスリー・トーク・モデルの詳細
SDM(共同意思決定)とは?患者と医師が協力する医療の在り方|Doctor's Vision
2025年9月、メルクバイオファーマ社が発表した「SDM(協働意思決定)に関する意識と実態調査」では注目すべきデータが示されました。SDMの実施状況を100点満点でスコア化し、そのスコア別に治療満足度を比較すると、SDM実施スコアが高い患者ほど「治療への満足度が高い」「医師とのコミュニケーションに満足している」という相関が確認されています。
さらに同調査では、患者の79.0%がSDMを知らないと回答した一方で、95.5%が「医師と話し合って一緒に治療方法を決めたい」と回答しています。つまり患者さんはSDMという言葉は知らなくても、SDMが実現する体験を強く望んでいるわけです。意外ですね。
歯科では、インプラントや矯正・ホワイトニングなど、複数の選択肢が存在する場面が特に多くあります。こうした場面でSDMを意識することで、治療後の「思っていたのと違った」「もっとよく聞けばよかった」というトラブルを未然に防ぐことができます。
また、たとえ患者さんが希望した治療結果にならなかった場合でも、十分なコミュニケーションを経て決断した治療であれば、患者さんの納得・受容につながりやすいことも研究が示しています。つまりSDMはクレームリスクの低減にも直結するプロセスです。
参考:SDM実施スコアと治療満足度の相関についての詳細
SDM(協働意思決定)の実践に向けて:医師・患者の両立場から現状と課題を考える|オンコロ
SDMを実践する上で、口頭だけの説明には限界があります。そこで欧米では1990年代から「デシジョンエイド(Decision Aid:DA)」と呼ばれる意思決定支援ツールが開発・活用されてきました。これは選択肢の長所・短所を中立的に整理して患者さんに提示し、自分の価値観に沿った決定を支援するためのツールです。
コクランレビュー(Stacey et al. 2017、37件のランダム化比較試験を統合)によると、DAを使用することで患者の知識が増加し、価値観と選択の一致度が高まり、意思決定への積極的参加が向上することが確認されています。単に知識をまとめたパンフレットとは異なり、「この治療が自分にとって最善かどうか」を患者さん自身が判断できるよう設計されている点が特徴です。これが条件です。
歯科でのDAの具体的な活用イメージとしては、次のような形が考えられます。
既存のツールとしては、国立長寿医療研究センターが提供している「意思決定ガイド(decisionaid.jp)」があります。医科領域向けが中心ですが、DA作成の構造参考として歯科でも活用できます。
紙一枚の「比較シート」を診察ブース内に置くだけでも、患者さんは自分の価値観を整理しやすくなります。それだけで大丈夫です。SDMのためにシステムを大改造する必要はありません。まず一つのツールから始める、それが現実的な第一歩です。
参考:デシジョンエイドの効果に関するコクランレビューの概要
SDMの効果とDecision Aidsの活用|SDMがん検診
参考:患者さんのための意思決定ガイドの提供サイト(DA作成の参考)
患者さんとご家族のための意思決定ガイド|decisionaid.jp
SDMは万能ではありません。実践が難しい場面を理解した上で対応策を持つことが、現場での継続につながります。
まず難しいのが「高齢患者・認知機能の低下した患者」への対応です。記憶や注意の低下により、複数の選択肢を比較しながら自らの価値観を整理することが困難になる場合があります。ただし、認知機能が低下していても、長い人生で培った価値観や好みはその人の中に確かに残っています。「痛いのは嫌だ」「自分の歯で食べたい」という言葉をヒントに、家族や介護職との多職種連携でSDMを進めていく姿勢が重要です。
次に難しいのが「急性の痛みで来院した患者」の場面です。急性症状下では患者さんに十分な判断余地がなく、まずは痛みのコントロールが最優先です。このようなケースでは医師の経験や判断を優先する「パターナリズム」が適切な場合もあります。状況に応じた使い分けが原則です。
また、患者さんの中には「先生に全部お任せします」という方も少なくありません。こうした反応は拒否ではなく、信頼の表れである場合もあります。中山健夫先生が指摘するように「医師に委ねる」という決断もSDMの一形態として受け入れることが大切で、無理に患者側に決定を押し付けることはSDMの本旨に反します。
| 難しい場面 | 原因 | 歯科での対応策 |
|---|---|---|
| 認知症・高齢患者 | 記憶・注意力の低下 | 家族・ケアマネ等と連携し、過去の価値観を手がかりに進める |
| 急性疼痛・緊急対応 | 判断する余裕がない | まずは疼痛コントロール→落ち着いた後にSDMへ移行 |
| 「お任せします」タイプ | 信頼・遠慮・疲弊感 | 委ねることを尊重しつつ、「変更したくなったら言ってね」と伝える |
| 小児患者 | 意思の確立が不十分 | 保護者と連携しつつ、子どもにも分かりやすく説明(インフォームドアセント) |
なお、2014年時点の調査では日本の診療所内科医のうちSDMを実施しているのはわずか14.6%にとどまるという報告があります。歯科領域での同様の調査データはまだ少ないですが、状況は大きく変わっていないと考えられます。それでも2025年には医師国家試験出題基準にもSDMが明記され、今後は歯科国家試験でも正式に問われていく可能性が高い領域です。今からSDMの概念と実践を整理しておくことは、歯科従事者として確実なアドバンテージになります。
参考:SDMの実施率・課題・Three-talkモデルに基づく実践の詳細
患者さんの意思決定をSDMで支援する|医学界新聞(医学書院)