顔面神経麻痺は、顔面の表情筋を支配する顔面神経(第VII脳神経)の機能障害によって生じる疾患です。片側の顔面筋の動きが制限され、表情を作ることが困難になります。この疾患は歯科診療において重要な意味を持ち、時に歯科治療との関連性が指摘されることもあります。
顔面神経麻痺の60~70%はBell麻痺(特発性顔面神経麻痺)と呼ばれ、明確な原因が特定できないケースが多いとされています。しかし、近年の研究ではヘルペスウイルスの感染が主な原因として考えられています。
顔面神経麻痺の主な症状は、顔の片側に現れる表情筋の麻痺です。具体的には以下のような症状が見られます:
診断は主に症状の観察と病歴聴取によって行われますが、より詳細な評価のために以下の検査が実施されることもあります:
末梢性と中枢性の顔面神経麻痺を区別することが重要です。中枢性の場合は前額部の動きが保たれる傾向がありますが、末梢性では前額部を含めた顔全体の麻痺が生じます。また、中枢性の場合は他の神経症状を伴うことが多いのが特徴です。
顔面神経麻痺の治療は、発症から早期(できれば1週間以内)に開始することが重要です。主な治療法には以下のものがあります:
多くの場合、発症から6~8週間程度で症状は軽快しますが、重症例では回復に時間がかかることもあります。また、病的共同運動(口を動かすと目が閉じるなど)の予防のために適切なリハビリテーションが必要です。
歯科治療後に顔面神経麻痺が発症するケースが報告されており、その関連性について研究が進められています。九州大学歯学部口腔外科の研究によると、15年間で治療した28例のBell麻痺のうち13例が歯科処置後に発症したとの報告があります。
歯科処置との関連が指摘されているケースには以下のようなものがあります:
しかし、歯科処置の侵襲部位と顔面神経主幹の解剖学的位置関係から考えると、直接的な因果関係を証明することは難しいとされています。一方で、浸潤麻酔などの機械的刺激によって誘発された自律神経反射が関与している可能性も指摘されています。
歯科治療と同側に発症するケースが多いという報告もありますが、反対側に発症するケースも報告されています。このことから、直接的な物理的損傷よりも、自律神経系を介した間接的なメカニズムが関与している可能性が考えられます。
顔面神経麻痺を有する患者に対して歯科治療を行う際には、以下の点に注意が必要です:
歯科医療従事者は、顔面神経麻痺の予防と早期発見において重要な役割を担っています。以下のポイントに注意することで、リスク軽減と早期対応が可能になります:
歯科治療中に患者が口の周りの違和感や動きにくさを訴えた場合、または歯科医療従事者が顔面の非対称性に気づいた場合は、顔面神経麻痺の可能性を考慮し、適切な医療機関への紹介を検討すべきです。
特に注目すべき点として、通常の顔面神経麻痺では表情筋の麻痺が目立ちますが、頬筋のみの麻痺が生じるケースもあります。このような場合、顔貌の変化が少ないため見逃されやすいですが、咀嚼時の頬粘膜の緊張不全や食塊の口腔前庭貯留、頬粘膜の誤咬などの症状から発見できることがあります。
歯科医療従事者は口腔内を詳細に観察する機会が多いため、このような微細な変化に気づきやすい立場にあります。そのため、顔面神経麻痺の早期発見において重要な役割を果たすことができるのです。
歯科処置後に発症した顔面神経麻痺についての詳細な研究報告(日本口腔外科学会雑誌)
また、歯科治療中に発症した顔面神経麻痺に対する鍼治療の有効性を示す症例報告もあります。76歳男性の症例では、歯科治療中に口の周りに違和感が生じ、その後脳外科病院で末梢性顔面神経麻痺と診断されましたが、鍼治療により早期に改善したという報告があります。
歯科治療中に発症した顔面神経麻痺の鍼治療症例報告
顔面神経麻痺は、早期の適切な治療により多くの場合良好な回復が期待できます。しかし、発症から治療開始までの時間が長くなるほど、完全回復の可能性は低下します。そのため、歯科医療従事者による早期発見と適切な医療機関への紹介は、患者の予後を大きく左右する可能性があります。
さらに、歯科治療と顔面神経麻痺の関連性についての研究はまだ発展途上であり、今後さらなる知見が得られることが期待されます。歯科医療従事者は最新の情報を常にアップデートし、エビデンスに基づいた対応を心がけることが重要です。
顔面神経麻痺は患者のQOL(生活の質)に大きな影響を与える可能性がある疾患です。歯科医療従事者は口腔内の健康だけでなく、患者の全身的な健康と幸福にも配慮した包括的なケアを提供することが求められています。顔面神経麻痺に関する知識を深め、適切な対応ができるようになることは、そのような包括的ケアの重要な一部となるでしょう。