保険の咬合採得は180円なのにシリコーン材料費だけで200円以上かかります。
咬合採得に使用されるバイトペーストには、大きく分けてシリコーン系とワックス系の2種類が存在します。シリコーン系バイトペーストは付加型シリコーンを主成分とし、硬化後の寸法安定性に優れているのが最大の特徴です。代表的な製品として、トクヤマデンタルの「リアルバイト」、モリムラの「PERFIT シリコンバイト」、ペントロンジャパンの「オックスフォード バイト」などがあります。
これらの材料は操作時間が12〜15秒、口腔内硬化時間が45秒程度に設計されており、患者への負担を最小限に抑えながらも精密な記録が可能です。硬化時間が短いということは、患者が咬合位を保持する時間が短縮されるため、硬化待ちの間に生じる咬合位のズレを効果的に抑止できるということです。
材料費は1回の使用で200〜1000円程度かかります。この金額は保険診療における咬合採得の点数180円(18点×10円)を大幅に上回る金額です。しかし、精度の低い咬合採得による補綴物の再製を考慮すれば、材料・技工・時間コストを総合的に判断する必要があるでしょう。
一方、ワックス系のパラフィンワックスは材料費が安価で数十円程度で済みますが、常温で容易に変形するという大きなデメリットがあります。
つまりコストだけです。
歯科医院から技工所への搬送中、あるいは模型を咬合器に装着する際に変形が生じ、せっかく採得した咬合位の再現性が著しく低下してしまうのです。
シリコーン系材料は術者ごとの技術差が出にくい点も見逃せません。ワックスの場合は軟化温度の管理や軟化時間の調整など、術者の経験に依存する部分が大きくなりますが、シリコーン系はカートリッジから一定量を押し出して咬合させるだけという単純明快な操作です。
バイトペーストを使った咬合採得で最も注意すべきは、硬化途中での患者の動きや咬合位の変化です。多くのシリコーン系バイトペーストは操作時間が15秒程度、口腔内保持時間が45秒程度に設定されています。この45秒という時間は、歯科治療における咬合位保持時間としては非常に短い部類に入り、患者が疲労して下顎位がずれるリスクを大幅に軽減します。
操作時間の15秒というのは、カートリッジディスペンサーを操作してペーストを咬合面に填入し、患者に咬合させるまでの時間です。この時間内に片側でも両側でも歯列全体への注入が可能なように、材料の流動性が最適化されています。前歯部の咬合採得の場合は上下顎両方の表面に約5mmの厚さになるまで押し出す必要があり、この作業を15秒以内に完了させなければなりません。
硬化のタイミングも重要です。多くの製品は「シャープな硬化特性」を謳っており、これは硬化が徐々に進むのではなく、ある時点で一気に固まる特性を指します。シャープに硬化すると何が良いのでしょうか?
それは硬化途中のグニャグニャした状態が短いため、患者が無意識に力を入れたり顎を動かしたりする際の変形リスクが少ないということです。具体的には、口腔内保持時間45秒のうち、最初の30秒程度は柔らかく、残り15秒で一気に硬化するようなイメージになります。
硬化待ちの間、患者に対しては「軽く閉じたままでいてください」「力を入れずにリラックスしてください」という声かけが効果的です。グッと噛んでもらうのではなく、あくまで自然な咬頭嵌合位で軽く閉じてもらうことが、歯根膜の厚み分の歯牙移動を避けるために重要になります。歯は咬合圧がかかると歯根膜の厚み約0.2mm程度は沈み込むため、強く噛ませるとその分のズレが記録されてしまうのです。
硬化時間は室温や湿度によって変化します。冬場の診療室では硬化が遅れることがあるため、製品の添付文書に記載された推奨保管温度(通常は室温、直射日光を避けた冷暗所)を守ることが精度維持につながります。
咬合採得時のバイトペーストの適正な厚みは、部位によって異なります。一般的な指標として、前歯部では約5mm、小臼歯部では約7mm、大臼歯部では約10mm程度の厚みが推奨されています。この厚みは咬合堤(ろう堤)の基準と同様の考え方で、残存歯の頬舌径や咬合高径に合わせた設定です。
前歯部の咬合採得では、下顎および上顎両方の表面に約5mmの厚さになるまでペーストを押し出します。前歯は咬合面が狭く、臼歯のような広い咬合面を持たないため、唇側と舌側の両面にペーストを盛ることで、切端と切端の咬合関係を正確に記録する必要があります。
臼歯部では咬合面に直接約5mmの厚さで填入するのが基本です。厚すぎると患者が咬合した際に咬合高径が挙上されてしまい、本来の咬頭嵌合位とは異なる位置が記録されてしまいます。逆に薄すぎると、咬合面の解剖学的形態(咬頭や裂溝)が不明瞭になり、技工士が模型を咬合器にマウントする際の基準点が不明確になります。
バイトトレーを使用する場合は、トレーの両面に2〜3mmの厚さになるまで填入します。トレー自体に厚みがあるため、ペーストの厚みは直接填入する場合よりも薄くて済むわけですね。
厚みの管理は、補綴物の精度に直接影響します。適正な厚みで採得されたバイトは、技工士が模型を咬合器に装着する際に安定した支持を提供し、模型の浮き上がりや傾きを防ぎます。特に部分床義歯やブリッジなど、複数歯にわたる補綴物の場合、わずかな咬合器マウント時のズレが最終的な適合不良につながるため、厚み管理の重要性は一層高まります。
臨床では、初めて扱う製品の場合は練習用の模型で一度厚みを確認しておくと、実際の患者での操作がスムーズになります。カートリッジディスペンサーのトリガーを何回引けば約5mmになるか、という感覚を掴んでおくだけで、操作時間の短縮につながり、患者の負担軽減にもなるのです。
保険診療における咬合採得の点数は1個につき14点(床義歯の場合は21点)、つまり140円(210円)です。しかし前述の通り、シリコーン系バイトペーストの材料費だけで200〜1000円かかるのが現実です。この点数と材料費の逆転現象は、多くの歯科医院が直面するジレンマといえるでしょう。
ある歯科医院の実例では、シリコーンバイトの材料コストは約200〜1000円かかると明記されています。仮に300円の材料を使用した場合、保険点数180円(歯冠修復の場合、3割負担なら患者負担54円)に対して、医院側は材料費だけで120円の持ち出しになります。これに人件費や設備償却費を加えれば、精密な咬合採得を行うほど経営的には赤字という構造です。
だからといって安価なワックスで済ませた場合、どうなるのでしょうか?咬合採得の精度が低下し、補綴物の適合不良が発生すれば、再製が必要になります。再製には新たな印象採得、咬合採得、技工料、そして何より患者と術者の時間が必要です。1回の再製で失われるコストは、材料費換算で数千円から1万円以上に達することも珍しくありません。
このリスクを天秤にかけると、初回の咬合採得でシリコーン系材料を使用し、再製リスクを最小化する方が、長期的には経営的にも合理的という判断になります。クレーム対応や治療やり直しに費やす時間とコストを考えれば、事前に精度の高い材料を使ってリスク低減を図る方が賢明です。
保険診療の制約の中で精度を追求するには、自費診療との使い分けも一つの選択肢です。審美性や機能性を重視する補綴物については自費診療を提案し、その場合はシリコーン系バイトペーストを標準使用する、という診療方針を明確にしている医院も増えています。患者にとっても、自費で高額な補綴物を作製する際には、その土台となる咬合採得の精度が高いことは大きな安心材料になるでしょう。
材料の在庫管理も重要です。シリコーン系バイトペーストは使用期限があり、直射日光や高温多湿を避けて室温保管する必要があります。大量購入による単価削減を狙っても、使用期限切れで廃棄することになれば本末転倒です。月間の使用本数を把握し、適正在庫を維持することが、無駄なコストを発生させない基本になります。
あべ歯科クリニックの記事では、保険点数と材料費の矛盾について詳しく解説されています
口腔内スキャナーが普及する現代において、バイトペーストの役割はどう変化するのでしょうか。デジタル印象採得では光学スキャンによって歯列形態を記録しますが、咬合関係の記録には依然として物理的なバイト採得が必要なケースが多く存在します。
口腔内スキャナーによるフルマウススキャンは約5分程度で完了し、印象材硬化を待つ時間や石膏模型の工程を削減できます。しかし、咬合位の記録においては、スキャン時の患者の顎位が安定しているかどうかが精度を左右するため、ここでシリコーン系バイトペーストが威力を発揮します。
具体的には、口腔内スキャナーで上下顎の歯列をスキャンした後、シリコーンバイトで咬合位を記録し、そのバイトもスキャンすることで、デジタルデータ上で正確な咬合関係を再現するという併用法です。この方法により、デジタルの利点(データ保存・共有の容易さ、模型保管スペース不要)とアナログの利点(咬合位記録の確実性)を両立できます。
また、複数回の診療にわたる補綴治療では、初診時にシリコーンバイトで記録した咬合位をデジタルデータとして保存しておくことで、途中で患者の咬合が変化した場合の比較基準としても活用できます。矯正治療後の補綴や、長期間にわたる全顎的治療において、この「初期咬合位の記録」は治療計画の見直しや最終評価に役立つ情報となります。
デジタル技工とのマッチングも注目点です。CAD/CAMによる補綴物製作が主流になりつつある現在、シリコーンバイトで採得した咬合関係をスキャンしてデジタルデータ化することで、技工士はコンピュータ上で咬合調整をシミュレーションできます。これにより、セット時の調整量を予測でき、チェアタイムの短縮につながります。
ハイブリッド型の診療フローを構築するなら、以下のような使い分けが効果的です。単純な単冠修復ではデジタルスキャンのみで完結させ、複雑な咬合再構成やフルマウスリハビリテーションではシリコーンバイトを併用する、という段階的アプローチです。材料コストとデジタル機器の償却費をバランスさせながら、症例の難易度に応じた最適な方法を選択することが、これからの歯科診療における効率化と精度向上の鍵となるでしょう。
人材育成の観点からも、新人歯科医師や歯科衛生士に対して、まずシリコーンバイトを用いた基本的な咬合採得技術を習得させることは重要です。デジタル機器は日進月歩で進化しますが、咬合位を正確に記録するという基本原理は不変です。アナログ技術の確実な習得があってこそ、デジタル技術の真価を引き出せるという考え方です。