ANBが正常範囲内でも、Wits値が−10mmを超えると外科的矯正が必要になる場合があります。
Wits分析(Wits appraisal)は、1975年に南アフリカのA. Jacobsonによって提唱された、側面頭部X線規格写真(セファログラム)を用いた上下顎前後的位置関係の評価方法です。正式名称の"Wits"は南アフリカのウィットウォーターズランド大学(University of the Witwatersrand)に由来します。
計測のしかたはシンプルです。側面セファログラム上でA点(上顎歯槽基底の前方限界点)とB点(下顎歯槽基底の前方限界点)のそれぞれから、機能的咬合平面に対して垂線を下ろします。その交点をそれぞれAO・BOと呼び、AO-BO間の距離をミリメートル単位で計測します。これがいわゆる「Wits値(ウイッツ値)」です。
表示のルールは以下のとおりです。
- AOがBOよりも後方にある場合:マイナス(−)表示(骨格性Ⅲ級の方向)
- AOがBOよりも前方にある場合:プラス(+)表示(骨格性Ⅱ級の方向)
日本人正常咬合者における平均値は、男性で−1.49±2.71mm、女性で−2.35±2.33mm(粥川による)とされています。つまり正常では数ミリのマイナス値が標準です。標準値はほぼ0mmに近い範囲と覚えておけばOKです。
また、別の基準として「B点がA点より2.0mm前方にある状態(Wits=-2.0mm)が骨格性Ⅰ級」と定義する考え方も臨床では使われます(藤山光治ら, 日補綴会誌, 2025)。わずかなマイナス値が"正常"という感覚を持っておくことが基本です。
実際の臨床では、Wits値の変化から骨格の前後的不調和の程度をイメージします。例えばWits値が−8mmであれば「B点がA点より8mm前方にある」ということであり、鉛筆の太さ(約7〜8mm)ほどの差が顎骨レベルで生じているイメージです。
ウイッツの評価(Wits appraisal)の計測方法・基準値・意義をまとめたDental Noteの解説ページ
矯正診断でよく使われる骨格性指標にANB角があります。ANBとWits分析は似た目的で使われますが、根本的な考え方が異なります。
ANB角は、A点・N点(鼻根点)・B点の三点を結んだ角度で上下顎の前後的関係を評価します。しかし、ANBにはひとつの落とし穴があります。それはN点の位置によって数値が大きく変わるという点です。
たとえばN点が前方に偏位している患者では、ANBが骨格的に問題ない値を示していても、実際の上下顎の位置関係は骨格性Ⅲ級に近いケースがあります。ANBが正常でも骨格性Ⅲ級とは限らないのです。これは正面から見た場合に鼻の高さが平均より低い・高いケースなどでも同様の誤差が生じやすくなります。
一方、Wits分析は咬合平面を基準とします。N点の位置には影響を受けません。S-N平面と機能的咬合平面のなす角度が大きい場合(下顎の回転が著しい高角・低角ケースなど)にも、上下顎の前後的位置関係をシンプルに捉えられます。意外ですね。
クインテッセンス出版「歯科矯正学事典」ではWits分析について「N点に偏位があったり、S-N平面と機能的咬合平面のなす角度が大きかったりしてANBの値が疑わしい場合に有効」と説明しています。
| 評価項目 | ANB角 | Wits分析 |
|---|---|---|
| 基準点・基準面 | N点(鼻根点)を基準 | 機能的咬合平面を基準 |
| N点偏位の影響 | 受けやすい | 受けない |
| 下顎回転への対応 | 誤差が出やすい | シンプルに評価可能 |
| 表示単位 | 角度(°) | 距離(mm) |
| 日本人正常値(男性) | 約3〜4° | −1.49±2.71mm |
Wits分析はANBを補完する役割を担います。つまりWits分析は「ANBだけでは信頼性が下がるケースへの補助指標」が基本的な位置づけです。どちらか一方だけで判断するのは危険であり、2つの指標を組み合わせることが臨床精度の向上につながります。
なお、Wits分析の欠点として「咬合平面の設定自体が難しい」という点があります。咬合平面がずれると計測値も変わります。計測精度を上げるためには、再現性の高い咬合平面の設定を意識することが条件です。
クインテッセンス出版「歯科矯正学事典」ヴィッツ法(Wits analysis)の詳細解説。ANBとの使い分けが明記されている
Wits分析が矯正臨床で最も重要視される場面のひとつが、「外科的矯正治療が必要かどうか」の判断です。
日本大学歯学部の症例報告(國井ら, 日大歯学, 2018)では、外科的矯正治療か矯正単独治療かの判断基準として「ANBが−1〜−2°、Wits Appraisalでは−10mmにその境界がある」と明記されています。Wits値が−10mmを大きく超えるケースは外科的矯正治療の候補として評価が必要です。これは臨床上の重要な数字として覚えておきたいポイントです。
このボーダーケースの判断は非常に難しく、Wits値だけでなく以下の要素を総合的に判断します。
- ANB角・FMIA(フランクフルト平面と下顎中切歯歯軸のなす角)
- 下顎骨長・下顎角の開大具合・下顎枝後縁の傾斜方向
- 患者の軟組織所見(E-Lineや口唇突出感)
- 患者本人の希望と心理的背景
たとえば骨格性下顎前突のボーダーケースでANBが1.2°(一見正常値)であっても、Wits Appraisalが−8.9mmでFMIA(下顎中切歯の歯軸指標)の著しい舌側傾斜が認められた場合、外科的矯正治療が望ましいと判断された症例が報告されています。ANBだけを見ていると見逃しやすいケースです。
また、骨格性下顎前突の外科か矯正単独かのボーダーケースで矯正単独治療を選択した場合でも、動的治療後にWits値が−8.9mmから−4.6mmへと改善した報告があります。カモフラージュ治療(デンタルコンペンセーション)によって骨格的不調和を歯の移動で補う方法では、Wits値の完全な正常化は困難ですが一定の改善が期待できます。
Wits値と外科鑑別の目安をまとめると次のようになります。
| Wits値の目安(下顎前突方向) | 臨床的解釈 |
|---|---|
| 0mm〜−5mm程度 | 軽度骨格性Ⅲ級。矯正単独での対応を検討 |
| −5mm〜−10mm | 中等度。矯正単独とのボーダーケース域 |
| −10mm以上 | 外科的矯正治療を積極的に検討する基準 |
これは絶対的な判断基準ではありません。あくまでも総合的な評価の一指標として活用することが原則です。
日本大学歯学部「矯正単独治療を行った骨格性下顎前突叢生症例」−Wits値と外科・矯正単独治療の鑑別基準が詳細に記載された査読論文
近年急増しているアライナー型矯正装置(マウスピース矯正)においても、Wits分析は治療計画立案の重要な指標です。これは多くの臨床家が見落としやすいポイントです。
岡山大学・藤山光治らの論文(日補綴会誌, 2025)では、アライナー矯正の治療目標設定においてWits分析の活用が明確に示されています。具体的には「咬合平面を傾斜させることによりWits値が変化する」という点が強調されています。
- 骨格性Ⅱ級症例:咬合平面をスティープ(急傾斜)に変化させるとWits値が骨格性Ⅰ級に近づく
- 骨格性Ⅲ級症例:咬合平面をフラット(水平)に近づけるとWits値が骨格性Ⅰ級に近づく
これは使えそうです。マウスピース矯正では歯の移動によって咬合平面の傾きを意図的にコントロールすることができます。骨格的問題が完全には修正できなくても、咬合平面の傾斜を調整することで「Wits値の上では骨格性Ⅰ級に近づける」ことが可能です。
ただし、ここで注意が必要です。アライナー矯正では数十ステージ分の装置をあらかじめ設計するため、治療中の顎位変化を見越した予測精度が特に重要になります。咬合平面の傾斜変化はデジタルセットアップ上で事前にシミュレーションし、Wits値の変化も計算に含めた治療計画を立てることが条件です。
また、VTO(Visual Treatment Objective)と呼ばれるセファログラムのトレース図を用いた治療目標の図示は、Wits分析を含めた骨格評価を視覚的に示すうえで有効なツールとされています。治療計画を連携する歯科医師や患者と共有する際にも活用できます。
アライナー矯正を扱うすべての歯科医師・矯正医が、Wits分析を「ブラケット矯正だけの指標」と思っていたとしたら、それは大きなデメリットにつながります。治療前のセ