硬化直後pH約3のセメント、実は1日後に中性に戻ります。
リン酸亜鉛セメントは100年以上の歴史を持つ歯科用セメントで、20世紀において最も広く使用された合着材です。その組成は極めてシンプルで、粉末と液の2成分から構成されています。
粉末成分の主体は酸化亜鉛(ZnO)で、これに酸化マグネシウム(MgO)や酸化ビスマス(Bi₂O₃)などが添加されています。酸化マグネシウムは硬化反応の調整役として機能し、酸化ビスマスはX線造影性を付与する目的で配合されます。一方、液成分は正リン酸(H₃PO₄)の水溶液で、リン酸アルミニウムやリン酸亜鉛が溶解した状態になっています。液中に予め金属イオンを溶解させることで硬化反応を緩やかにし、臨床的な操作時間を確保しているのです。
つまり酸塩基反応が原理です。
練和によって粉末中の酸化亜鉛と液中のリン酸が反応し、リン酸亜鉛の塩(Zn₃(PO₄)₂)が形成されます。この反応は発熱反応であり、約60~90秒の練和時間で十分な流動性を保ちながらも、口腔内では約5~8分で硬化します。硬化体の内部構造は有芯構造と呼ばれ、未反応の酸化亜鉛粒子を核として、その周囲にリン酸亜鉛の硬化層が形成される特徴があります。
リン酸亜鉛セメントの最大の特徴は、優れた圧縮強度を持ちながらも化学的な接着性を全く持たないという点です。硬化後24時間の圧縮強さは約100MPa前後に達し、これは他の多くのセメントを上回る値です。100メガパスカルは、おおよそ指の爪ほどの面積に10kgの重りを載せた時の圧力に相当します。この高い圧縮強度が、長年にわたる臨床使用を支えてきました。
強度が高いだけです。
被膜厚さは20~30µm程度と非常に薄く、これは髪の毛の太さの約3分の1程度です。薄い被膜厚さは補綴物の適合性を高め、セメント層が厚くなることで生じる応力集中を防ぎます。JIS規格では被膜厚さ30µm以下と規定されており、適切な粉液比と練和方法を守ることで、この基準を満たすことができます。
しかし、リン酸亜鉛セメントは歯質にも金属にも化学的に接着しません。補綴物の維持は、完全に機械的嵌合力(投錨効果)に依存しています。支台歯形成時の保持形態(テーパー角度、補綴物の高さ、咬合面の面積など)が不十分な場合、セメント自体が優れた物性を持っていても脱落のリスクが高まります。このため、支台歯形成の精度がそのまま補綴物の予後を左右するのです。
耐酸性については課題があります。口腔内の酸性環境、特にpHが5.5以下になる状況では徐々に溶解が進行します。現在主流の接着性レジンセメントと比較すると、長期的な耐久性という観点では劣る面があり、定期的なメンテナンスと患者の口腔衛生管理が重要になります。
リン酸亜鉛セメントの練和には、厚手のガラス練板と金属スパチュラ(ステンレス製)の使用が推奨されます。一見、紙練板やアルミ製練板でも良いように思えますが、これには理論的根拠があります。
発熱対策が本質です。
リン酸亜鉛セメントは練和時に激しい発熱反応を起こします。粉液を一度に混ぜると、反応熱により温度が急上昇し、硬化速度が加速して操作時間が極端に短くなります。温度が10℃上昇すると、化学反応速度は約2倍になるという法則があり、このことは練和操作に直接影響します。厚手のガラス練板は熱伝導率が適度に低く、かつ熱容量が大きいため、発生する熱を効率的に吸収・分散させます。
分割練和法は必須の技術です。JIS法では4分割、ADA法では6分割による練和が推奨されています。具体的には、まず液をガラス練板上に滴下し、粉末を4~6回に分けて少量ずつ加えながら60~90秒かけて練和します。最初に粉末の約4分の1を液に加えて素早く練り込み、その後15秒ごとに残りの粉末を追加していきます。
室温が高い時期(25℃以上)には、ガラス練板を冷水で冷却してから使用すると効果的です。ただし、結露するほど冷やすと水分が混入し、セメントの物性が劣化するため、冷却後は水分をしっかり拭き取ります。練和時間が長すぎると初期硬化が始まり強度が低下するため、規定時間内に練和を完了させることが重要です。
適切な練和の判断基準は、スパチュラで持ち上げた時に約2.5cm(500円玉の直径程度)糸を引く程度のコンシステンシーです。これより硬すぎると被膜厚さが増し、柔らかすぎると強度が低下します。
ジーシー社の歯科材料ハンドブックでは、セメント練和時の温度管理と分割練和法の詳細な手順が図解されています
リン酸亜鉛セメントの使用で最も注意すべき点は、硬化直後の強酸性による一過性の歯髄刺激です。練和直後のpHは実に3~4程度、文献によってはpH0.05という極めて低い値を示すものもあります。pH3は食酢とほぼ同等の酸性度で、これが象牙細管を通じて歯髄に達すると、患者は一時的な痛みや不快感を訴えることがあります。
1~2日で中性化します。
しかし、このpHは時間経過とともに急速に上昇し、硬化から約1~2日後には中性付近まで戻ります。硬化反応が進むにつれて遊離のリン酸が消費され、リン酸亜鉛塩として固定されるためです。したがって、初期の歯髄刺激は一過性であり、長期的な生体親和性に問題はありません。
臨床的な対応策として、象牙質が露出している深い窩洞では裏層(ベース)の併用が推奨されます。水酸化カルシウム製剤やグラスアイオノマーセメントを薄く(0.5~1mm程度)敷くことで、リン酸の象牙質への浸透を物理的にブロックできます。ただし、裏層材が厚すぎると補綴物の適合に影響するため、必要最小限の厚さに抑えることが原則です。
無髄歯(神経を除去した歯)への使用では、歯髄刺激の心配がないため、リン酸亜鉛セメントは第一選択となることが多いです。コストパフォーマンスと操作性の良さから、今でも多くの臨床現場で選ばれています。
補綴物装着後の余剰セメント除去は、多くの術者が軽視しがちですが、実は予後を左右する重要な工程です。除去のタイミングを誤ると、歯周組織に炎症を引き起こすリスクが高まります。
口腔温度で約5分前後経過すると、余剰部分から硬化が始まります。最適な除去タイミングは、探針やヘラで余剰セメントに軽く触れた時に「ゴム硬さ」を感じる時点です。この段階では、セメントは表層だけが硬化し始め、内部はまだ柔軟性を保っています。具体的には装着後2~3分程度が目安ですが、室温や口腔温度、練和の硬さによって前後するため、タイマーをセットして確認することが推奨されます。
早すぎても遅すぎてもダメです。
除去が早すぎると(装着直後~1分以内)、セメントがまだ流動性を持っているため、補綴物マージン部から歯質へのセメントの封鎖が不完全になり、マイクロリーケージの原因となります。逆に除去が遅すぎると(硬化後)、セメントが完全に硬化してしまい、除去時に補綴物に不要な力が加わって脱離するリスクや、歯肉を傷つけるリスクが高まります。
歯肉縁下に入り込んだ余剰セメントは、特に注意が必要です。リン酸亜鉛セメントは硬化後に不溶性となるものの、尖った小片が歯周ポケット内に残ると機械的刺激となり、慢性的な歯肉炎を引き起こします。研究では、セメント残留が歯周病の増悪因子になることが報告されています。デンタルフロスやスケーラーを用いて、歯肉縁下も含めて確実に除去することが必須です。
除去手順としては、まず隣接面のコンタクト部から始めます。デンタルフロスを通してセメントを取り除き、その後、歯肉縁周囲をヘラやスケーラーで優しく掻き出します。対合歯や隣接歯にもセメントが付着していないか必ず確認しましょう。患者が「噛むと痛い」と訴える原因が、実は対合歯に付着した小さなセメント片であることも少なくありません。
デンタルハッピーの記事では、余剰セメント除去の失敗しないための注意点とタイミングの見極め方が具体的に解説されています
リン酸亜鉛セメントの代表的な適応は、金属冠やメタルボンド、金属インレー、ブリッジといった補綴物の永久合着(セメント装着)です。特に金属修復物との相性が良く、金属の表面性状(粗さ)と機械的嵌合により、長期にわたる維持力を発揮します。
合着だけではありません。
大きな窩洞における裏層(ベース、ライニング)としての使用も一般的です。コンポジットレジン修復の前に、歯髄に近い深部をリン酸亜鉛セメントで覆うことで、レジン重合時の発熱や収縮応力から歯髄を保護します。ただし、前述の通り初期のpHが低いため、深在性う蝕では水酸化カルシウム製剤との併用が推奨されます。
支台築造(ポストコア)の材料としても歴史的に使用されてきました。現在では接着性レジンコアが主流ですが、無髄歯で特に保持形態が良好な症例では、コスト面からリン酸亜鉛セメントが選択されることもあります。築造体の維持は補綴物と同様、機械的嵌合力に依存するため、ポストの長さと形態が重要です。
一時的な仮封材としての応用もあります。根管治療中の仮封や、補綴物製作期間中の暫間的な封鎖に用いられ、その際は通常より柔らかめに練和して除去しやすくします。
判断基準はシンプルです。
症例選択の判断基準としては、支台歯の保持形態、咬合力の大きさ、審美性の要求度、患者の口腔衛生状態が挙げられます。保持形態が不十分な症例、強い咬合力がかかる症例、審美領域のセラミック修復では、接着性レジンセメントの方が適しています。一方、保持形態が良好な金属冠、無髄歯の修復、コストを抑えたい症例では、リン酸亜鉛セメントは依然として有効な選択肢です。
最近では、CAD/CAM冠やジルコニア修復の普及により、接着性レジンセメントが第一選択となるケースが増えています。しかし、リン酸亜鉛セメントの持つシンプルさ、経済性、長期の臨床実績は無視できません。材料の特性を正しく理解し、症例に応じて適切に選択することが、現代の歯科医療従事者に求められています。
1D(ワンディー)の詳細記事では、リン酸亜鉛セメントの臨床用途と各種症例における判断基準が網羅的にまとめられています