既往歴を「なし」と書くだけで、抜歯後に患者が顎骨壊死を起こし訴訟になった事例があります。
「既往歴」とは、患者がこれまでに経験した病気・ケガ・手術などの病歴全般を指す用語です。語源は「既往(すでに過ぎ去ったこと)+歴(経過の記録)」で、現在は治癒・終結した疾患の履歴を意味します。一方、現在も治療中・症状が継続中の状態は「現病歴」として区別します。この違いはシンプルですが、臨床現場では混同されがちです。
歯科カルテにおける既往歴は、他科の診療録と比べても特に「全身疾患の把握」という役割が強くなります。虫歯や歯周病の治療だけを行う印象がある歯科ですが、局所麻酔・抜歯・インプラントなど侵襲的な処置が多く、全身状態が治療の可否や安全性に大きく影響するためです。つまり、カルテへの既往歴記載は「過去の話の記録」ではなく、「今日の安全な治療のための情報」として機能します。これが原則です。
歯科疾患管理料など各種管理料を算定する場合、近畿厚生局が公開している令和2年度の個別指導指摘事項によると、「1回目の管理計画において基本状況(全身の状態、基礎疾患の有無、服薬状況等)が診療録に記載されていない」ことが明確な指摘事項として挙げられています。つまり既往歴の記載は、点数算定の根拠にも直接関係します。
問診票に記載があっても、それをカルテに転記・反映していなければ「記録した」とは見なされません。問診票はあくまで収集ツールであり、カルテへの記載が法的・保険請求上の根拠になる点を忘れないでください。
参考として、愛知県保険医協会が公開している個別指導の指摘事項資料も確認しておくことをおすすめします。
愛知県保険医協会:個別指導で指摘がされているカルテ記載について
実際にどのような内容をカルテの既往歴欄に記載すべきか、迷う場面は少なくありません。一般的な基準として「風邪・腹痛など一過性で後遺症のないもの」は記載不要とされています。しかし歯科の文脈では、以下の疾患・情報は必ず確認・記載する対象です。
| カテゴリ | 記載すべき内容の例 | 歯科治療への影響 |
|---|---|---|
| 循環器系 | 高血圧、心臓弁膜症、不整脈、心筋梗塞の既往 | 局所麻酔のアドレナリン使用制限、術前モニタリングの要否 |
| 代謝・内分泌 | 糖尿病(HbA1cの値も可能であれば)、甲状腺疾患 | 創傷治癒遅延、感染リスク上昇、インプラント禁忌の可能性 |
| 骨代謝 | 骨粗鬆症、ビスホスホネート(BP)系薬剤・デノスマブの服薬歴 | 顎骨壊死(MRONJ)発症リスク、抜歯時の禁忌判断 |
| 血液・凝固 | ワーファリン・DOAC服用、血友病、白血病の既往 | 抜歯後の止血不全、術前休薬の要否確認 |
| アレルギー | 薬物アレルギー(特に麻酔薬)、金属アレルギー、ラテックスアレルギー | アナフィラキシーショックの予防、使用材料の変更判断 |
| 手術・入院歴 | 全身麻酔経験、消化管手術歴、人工関節置換術 | 感染性心内膜炎の予防投薬、術後感染リスク評価 |
| 精神・神経系 | てんかん、パーキンソン病、認知症 | 開口保持困難、服薬相互作用の確認 |
| 妊娠・産科 | 妊娠中・授乳中の有無、不妊治療中 | レントゲン制限、投薬制限(抗生物質・鎮痛薬) |
これが基本の一覧です。特に「骨粗鬆症の治療でビスホスホネート系薬剤を服用中の患者への抜歯」は、顎骨壊死(MRONJ:薬剤関連顎骨壊死)の重大リスクを伴います。日本口腔外科学会の報告では、経口ビスホスホネート製剤を服用中に抜歯を行った症例で顎骨壊死の頻度が最大9.1%まで上昇するという報告もあります。服薬の有無を問診票で確認するだけでなく、カルテに服薬歴として必ず残すことが安全管理の第一歩です。
また、アレルギー歴は既往歴欄と区別して【アレルギー】という見出しで独立させて記載するのが最善です。既往歴に埋もれると見落としが起きやすく、スタッフ間の情報共有にも支障をきたします。
日本口腔外科学会:ビスホスホネート系薬剤と顎骨壊死に関する解説PDF
歯科のカルテ記載形式として広く普及しているのがSOAP(ソープ)方式です。SOAPはそれぞれ、S=Subjective(主観的情報)、O=Objective(客観的情報)、A=Assessment(評価・診断)、P=Plan(計画・処置)を意味します。既往歴はこのうち「S(主観的情報)」の中に含まれるのが一般的です。
具体的には、Sに以下の情報を整理して記載します。
重要なのは、この5項目を「既往歴」という1つの欄に混在させないことです。たとえば「高血圧で現在ワーファリン服用中」という情報は、既往歴ではなく現病歴(現在も治療中)に分類され、服薬歴には薬剤名・用量を別途記録すべきです。混在させると、後から読み返したときに情報の「鮮度」が失われます。
カルテメーカーの実践例では、以下のような見出しの分類が推奨されています。
```
【既往歴】 過去に治癒した疾患
【基礎疾患】 現在も管理中の慢性疾患
【服薬履歴】 現在服用中の薬剤(お薬手帳の写しも添付)
【アレルギー】 薬物・金属・食物アレルギーの詳細
【生活歴】 喫煙・飲酒・口腔ケア習慣
【説明】 患者への説明内容と同意の記録
```
「既往歴だけ書けばいい」と思っている方も少なくないですが、これは効率的ではありません。見出しを分けることで個別指導での指摘も減り、医療安全上のリスクも大きく下げられます。歯科疾患管理料などの算定要件にある「全身の状態・基礎疾患の有無・服薬状況の記載」もこの分類で自然にカバーできます。
また、POMR(問題志向型診療録)の考え方では、既往歴を「問題リストに影響する背景情報」として位置づけています。保険診療の文脈では傷病名欄が問題リストに対応しますが、既往歴は主治医の診断根拠を支える「根拠情報」としての機能を持つことを意識すると、記載の質が変わります。
カルテメーカー公式note:POMRと歯科保険カルテの書き方解説
歯科医院が地方厚生局の個別指導を受けると、カルテ記載に関するさまざまな指摘を受けることがあります。指摘が多い項目は毎年公開されており、その中でも既往歴・基礎疾患に関する記載は繰り返し挙げられている常連項目です。厳しいところですね。
近畿厚生局が公開している令和2年度の個別指導指摘事項資料では、以下のような内容が明記されています。
これらの指摘はすべて、既往歴を含む初診時の基本情報の記載不備です。個別指導は一度受けると再指導・監査に進むリスクが生じ、最悪の場合は保険医療機関の指定取り消し処分につながる可能性もあります。法的リスクとして見ると、記載不備は「診療契約上の付随義務違反」として損害賠償請求の根拠にもなり得ます(東京地裁・平成年代の医療事故裁判例も同様の判断を示しています)。
具体的な対策として、次の3点を診療フローに組み込むことで記載漏れをほぼゼロにできます。
**【対策1】問診票→カルテ転記チェックの仕組み化**
問診票で患者に記入してもらった既往歴情報は、受付または担当スタッフが診察前にカルテへ転記し、担当歯科医師が確認・追記する流れを明文化します。転記漏れを防ぐためのチェックリストを受付に置くだけでも効果があります。
**【対策2】初診テンプレートの整備**
電子カルテシステムには初診テンプレートを用意し、【既往歴】【基礎疾患】【服薬履歴】【アレルギー】の見出しを自動表示させます。見出しが空欄のままでは保存できない設定にするか、確認チェックボックスを設けると有効です。
**【対策3】「特記事項なし」の明記ルール**
既往歴が「ない」場合も「既往歴:特記事項なし」と明記します。空欄のままでは「確認しなかった」とも「記載を忘れた」とも解釈されます。「特記事項なし」の一言が、確認を行ったという証拠になります。これだけ覚えておけばOKです。
近畿厚生局:令和2年度 個別指導(歯科)における主な指摘事項(PDF)
既往歴の記載について語られるとき、「初診時にきちんと書く」ことがほぼすべての文脈で強調されます。しかし見落とされがちな視点があります。それは「既往歴は更新するもの」という発想です。
患者の健康状態は来院のたびに変化します。半年前には服薬していなかった骨粗鬆症の薬を、今回の来院時から飲み始めているというケースは実際によくあります。骨粗鬆症治療薬(ビスホスホネート系、デノスマブ)を3年以上服用中の患者に抜歯を行うと、顎骨壊死の発症リスクが明確に上昇するというエビデンスがあります。初診時の既往歴に「骨粗鬆症なし」と書いたとしても、その後の来院で更新されていなければ、その記録は危険なフィクションになります。
この問題を防ぐための実践的なアプローチとして、「定期的な既往歴・服薬情報の再確認」を診療フローに組み込む方法があります。具体的には次のような運用が効果的です。
こうした「既往歴の更新管理」は、医科の大病院では電子カルテシステムに組み込まれているのが一般的です。しかし歯科クリニックでは、システムよりも「診療フロー上のルール」として運用することが現実的です。
また、認知症・要介護患者の増加に伴い、患者本人から正確な既往歴を聴取できないケースも増えています。そのような場合は、「家族・介護スタッフから聴取した情報を元に記録」という注記をカルテに加えることで、情報の信頼性を担保できます。意外ですね。主治医やケアマネジャーとの連携メモも同一カルテに残しておくと、後からのトラブルを大幅に防げます。
既往歴管理の運用体制を整えるにあたっては、問診票のデジタル化も選択肢の一つです。デジタル問診票を使えば、来院のたびに患者が前回回答を確認しながら変更点を入力でき、その情報が電子カルテへ自動連携されます。スタッフの転記作業も不要になり、記録の精度と業務効率を同時に高めることができます。
歯科カルテ(診療録)の記載は、歯科医師法第23条および療担規則(保険医療機関及び保険医療養担当規則)によって義務づけられています。特に療担規則の観点では、カルテは「保険請求の根拠」という性格を持つため、記載内容が不十分な場合は不正請求と同一の評価を受けることがあります。
歯科医師法第23条では、「歯科医師は診療をしたときは遅滞なく診療に関する事項を診療録に記載しなければならない」と定めています。この「診療に関する事項」の中には、既往歴・服薬情報・アレルギーを含む初診時の情報収集と記録が含まれます。また、歯科医師法第23条2項により、診療録の保存期間は最終の診療日から5年間と定められています。
カルテの修正ルールについても正確に把握しておく必要があります。カルテは原則として修正液・塗りつぶし・貼り紙による訂正は禁止されており、誤記を修正する場合は「二重線を引き、修正日・修正者が分かるように記載する」方法が正しい方法です。これは個別指導でも繰り返し指摘されている項目です。
カルテ開示に関しては、患者から請求があった場合に「拒絶できない」という点が重要です。歯科医師がカルテ開示を拒絶し、説明義務違反として訴訟になった裁判例(東京地裁・医療安全ネットNo.518事例)も実在します。既往歴を含む記録全体が、第三者に読まれることを前提に書かれている必要があります。
「診療録は、有事に備えた医師の最大の味方」とも言われます。しかし記載が不十分では、逆に訴訟時の不利な証拠になり得ます。結論は「書いていないことは、していないこと」という原則です。
厚生労働省:診療録等の保存を行う場所について(歯科医師法第23条関連)
医療安全ネット:No.518 歯科医師のカルテ開示拒絶に関する裁判例の解説
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