医師のための予防と対応の実践知識を。
治療中にエアが漏れても多くは自然治癒するため、軽度なら経過観察で十分です。
皮下気腫は、歯科用機器から放出される圧縮空気が皮下組織の隙間に侵入することで発生する偶発症です。一般的な歯科治療では、術野の乾燥やスケーリング、歯の切削のために空気の圧力が使用されますが、この圧力の強さが意外と強力であることが問題となります。特に皮膚や粘膜が損傷されている場合、空気が容易に皮下組織に入り込みます。
具体的な発生経路としては、エアタービンからの圧縮空気、3ウェイシリンジからの送気、根管洗浄時の薬液の発泡、歯科用レーザーの冷却エアなど複数の要因があります。1993年から2020年の症例を分析した報告では、全症例の51%が空気駆動のハンドピース(エアタービン)による発生であり、9%がエアシリンジによるものでした。残る10%は患者が治療後に鼻をかむなどの行動が原因となっています。
空気が組織内に侵入すると、皮下組織や筋膜の間(疎性結合組織)に貯留し、急激な腫脹を引き起こします。この時の空気の貯留量や拡散範囲により、症状の軽重が左右されます。症状が局所的にとどまる場合がほとんどですが、稀に気腫が気道周囲や縦隔(心臓と肺の間の空間)にまで波及することもあります。
気腫が縦隔に波及することはきわめて稀ですが、その場合は重症化の可能性があり、医科への紹介が必要な症例の詳細について
親知らず抜歯時の皮下気腫発生が全体の3割を占め、最も頻度が高い処置です。
歯科治療の中でも特に皮下気腫が発生しやすい処置として、下顎埋伏智歯(親知らず)の抜歯が挙げられます。歯や骨を削除する必要があるため、エアタービンの使用時間が長くなり、剥離した歯肉の隙間から空気が容易に侵入します。1960年から1995年の文献検討では、気腫の発生例74件中33件が抜歯時であり、特に下顎智歯抜去時に集中していました。下顎の埋伏智歯では骨が厚く、圧縮空気で骨を削る必要があるため、圧力が組織深部に達しやすい環境が形成されます。
根管治療も皮下気腫の発生源となります。特に根管治療時に使用されるエアシリンジで根管を乾燥させる際、太く拡大された根管から空気が侵入することがあります。また根管洗浄に使用される過酸化水素水が発泡し、圧力を生じることも原因となります。
歯面清掃(プロフェッショナルクリーニング)時の発生も報告されており、炭酸カルシウムなどの粉末を圧縮空気で高圧噴射する際に、歯肉の微細な傷から空気が入り込みます。電気メス使用時の乾燥や、仮歯・本歯装着時のエアー吹き付けも発生の要因となります。
年齢や性別による発生率の有意差は認められず、全ての患者層で発生の可能性があります。ただし処置の難易度や時間が長いほど、リスクが高まります。
患部を指で押すとパチパチという捻髪音がして、握雪感という独特の触覚が得られます。
皮下気腫の最も特徴的な症状は、治療直後から急速に発生する顔面・頸部の腫脹です。通常の炎症による腫脹と異なり、空気によるパンパンとした張った感覚が患者に自覚されます。患部が温かくなることはなく、発熱を伴わないのが炎症との鑑別ポイントです。
診察時に患部を指で押すと、独特の音と感触が得られます。この捻髪音(ねんぱつおん)は、空気がはじける「プチプチ」「パチパチ」という音で、臨床的に極めて特異度が高い所見です。併せて握雪感(あくせつかん)といって、雪を握ったような沙沙とした感触が指の触覚で感知されます。
腫脹の広がり方は個人差があり、局所的な場合もあれば、顔面全体や頸部、時には胸部に拡散することもあります。CT撮影により空気の存在を直接的に確認することができ、電気的な低吸収域として画像上に映ります。広範な気腫が疑われる場合、気道圧迫のリスク評価のためにCT検査が推奨されます。
患者の訴える症状としては、顔のむくみ感の他に、軽度の疼痛や圧迫感、耳の違和感などが報告されています。呼吸困難や胸痛を訴える場合は、気腫が気道や縦隔に波及している可能性があり、より慎重な対応が必要です。
軽度の皮下気腫は2~3週間の安静で自然治癒するため、治療方針は経過観察が基本となります。
発症後の対応としては、まず抗生剤の予防投与が重要です。理由は気腫そのものが感染症ではないため炎症による腫脹ではありませんが、空気とともに口腔内の細菌が皮下組織に侵入した可能性があるためです。細菌増殖による二次感染を防ぐため、広スペクトラムの経口抗生剤が処方されます。
安静に徹することが最優先です。患者が心配して患部を頻繁に触ったり押したりすると、入り込んだ空気が別の箇所に拡散移動し、より広範囲に気腫が進行する危険があります。特に気道周囲への拡散は呼吸困難を引き起こす可能性があるため、患者への説明が不可欠です。腫脹部を自分で触れないよう指導し、頭部を高くした姿勢での安静を勧めます。
軽度の場合、数日で回復するか、長くても2~3週間の安静で治癒します。この期間は鎮痛剤や咳止めを併用しながら経過観察します。広がりの大きな皮下気腫の場合、針や管を胸部から皮下に挿入して一時的に空気を排出する外科的処置(排気)を施されることもあります。
広範囲な気腫が疑われる場合や患者が呼吸困難を訴える場合は、医科への紹介が必要となります。特に気腫が頸部や胸部に波及し、気管周囲に空気が貯留した場合、気道圧迫による窒息のリスクが生じるため、CT撮影と医科の評価が緊急で必要です。
厚生労働省が示す歯科治療時の偶発症に関する標準的な予防策と緊急対応について
エアタービンの使用を最小限に留め、特に下顎智歯抜去時は低回転タービンの選択を検討します。
予防の最大のポイントは、エアタービンの使用を必要最小限に制限することです。特に下顎智歯抜去時には縦隔にまで及ぶような広範囲の気腫が発現する傾向があるため、高速タービンではなく5倍速マイクロモーターの使用を検討する価値があります。低回転回転数では切削効率は低下しますが、気腫発生リスクが大幅に軽減されます。
歯を分割する際の工具選択も重要です。ダイヤモンドポイント使用時にはカーバイドバー使用時よりもバーの破折や軟組織迷入のリスクが低下するため、予防の観点から優れています。骨削除量を最小限にすることで、空気圧が深い組織に到達する機会を減らします。
治療前の患者への説明では、稀ではあるが起こりうる偶発症として皮下気腫を明示し、「顔が腫れたり、触った時にパチパチという音がしたら、すぐに連絡してほしい」と具体的に説明することが重要です。患者の理解があれば、発症時の対応が迅速になります。
剥離した歯肉の隙間から空気が容易に侵入する環境を作らないよう、歯肉剥離の範囲と方法に工夫を加えることも有効です。フラップの最小限の挙上に努め、不要な組織損傷を避けることで、空気侵入の経路を限定できます。
術中に強く吸引することで、わずかな空気の漏れを捕捉し、組織内への侵入を防ぐ方法も有効です。吸引の位置と圧力を適切に調整することで、エアの漏れを早期に検出できます。
患者が治療後に鼻をかむ、咳をする、喫煙などの行動も気腫を誘発する要因となるため、治療後のリスク行動について明確に指導することが必要です。特に親知らず抜歯後の数日間は、これらの行動を厳に禁止するよう患者に周知します。
気管周囲への波及が疑われる場合、躊躇なく医科への紹介を進めることが命に関わる判断です。
皮下気腫の大多数は自然治癒する予後良好な偶発症ですが、稀に重症化する場合があります。気腫が気道周囲や縦隔に波及した場合、呼吸困難や胸痛などの重篤な症状が出現し、人工呼吸管理が必要な状況まで進行することもあります。このため、初期診察の段階で気腫の拡がりを正確に評価することが極めて重要です。
医科へ紹介する判断基準としては、以下の場合が挙げられます。患者が呼吸困難を訴える場合、頸部や胸部の広範囲な腫脹がある場合、CT撮影で気腫が気道周囲に達している場合です。医科では呼吸循環動態の管理、必要に応じた呼吸サポート、胸腔ドレーン挿入などの処置が提供されます。
抗菌薬予防投与については、軽度の局所気腫のみであれば経口抗生剤で対応できますが、広範囲な気腫や医科紹介となった場合は、より広スペクトラムの抗生剤を静注で投与する場合があります。感染症でない気腫に対して過度な抗生剤使用は避けるべきですが、細菌混入のリスクを踏まえた予防投与は標準的実践です。
回復期間中の患者の日常生活上の注意としては、激しい運動や力仕事を避け、できるだけ頭部を高くした状態で静養することが推奨されます。食事は刺激の少ないものを選び、治療部位への咬合圧がかからないよう配慮します。1週間から2週間で大部分の症状が軽快しますが、完全に腫脹が引くまでは2~3週間を要する場合もあります。
皮下気腫は歯科治療における稀な偶発症ではありますが、発症時の迅速な診断と適切な対応が予後を左右します。歯科医師の側では予防の徹底と、万が一発症した場合の対応フロー(患者への説明、医科への紹介基準、抗生剤処方方針)を明確に準備しておくことが、患者の信頼維持と安全な医療提供につながります。