資格を持つ歯科衛生士の半数以上が、今この瞬間も歯科医院で働いていません。
歯科衛生士の有効求人倍率は、2024年度時点で23.7倍(全国歯科衛生士教育協議会調べ)に達しています。これは1人の求職者に対して約24件の求人が出ているという意味で、求職者が職場を選び放題の完全な売り手市場です。求人倍率1倍を少し超えた程度で「採用難」と言われる一般業界と比べると、その異常さが際立ちます。
この数字を別の角度から見ると、2024年度に全国の歯科衛生士養成校を卒業して就職した人数は6,680人であるのに対し、求人人数はなんと158,320人にのぼります。つまり、卒業生1人に対して23.7人分の求人が積み上がっている計算です。これほど極端な需給ギャップが生まれている背景には、いくつかの根深い構造問題があります。
まず目を向けるべきは、歯科医院の数です。日本全国の歯科診療所は約67,000〜68,000軒(厚生労働省調査)に達しており、全国のコンビニ(約55,000〜58,000店)よりも1万軒以上多いとされています。コンビニより多い、というのはよく聞くフレーズですが、実際に「街を歩けば歯医者がある」という光景は珍しくありません。これほど医院数が多ければ、当然それを支える歯科衛生士の需要は膨大になります。しかし、供給側の増加スピードは追いついていません。
つまり不足の原因は「歯科衛生士が減っている」のではなく、「需要が増えすぎている」という点にあります。この前提を持たずに採用活動を進めると、いつまでも的外れな対策を繰り返すことになります。
参考:厚生労働省 令和6年衛生行政報告例(就業医療関係者)
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/eisei/24/dl/gaikyo.pdf
参考:全国歯科衛生士教育協議会「歯科衛生士教育に関する現状調査の結果報告(令和7年度版)」
https://www.kokuhoken.or.jp/zen-eiky/publicity/file/report_2025.pdf
歯科衛生士不足を語るうえで、多くの人が見落としがちな事実があります。それが「潜在歯科衛生士」の存在です。
厚生労働省の最新データによると、歯科衛生士の資格保有者数は321,241人(免許登録者数)に達しています。一方で、実際に就業している歯科衛生士は149,579人(令和6年末時点)にとどまっており、就業率は46.6%にすぎません。
計算は明快です。残りの53%以上、17万人を超える資格保有者が、現在は現場で働いていないのです。これはちょうど、東京ドームが収容できる人数(約5万5,000人)の3個分以上に相当します。
この「潜在歯科衛生士」が生まれる最大の理由は、ライフイベント、すなわち結婚・出産・育児です。歯科衛生士の9割以上が女性であり、出産・育児のタイミングで離職し、そのまま復職できない状況が続いているケースが非常に多くみられます。特に個人経営規模の歯科医院では育休・産休制度が整備されていないケースも多く、「制度がないから辞めざるを得なかった」という声は現場でよく聞かれます。
ポイントはここです。資格を持ちながら就業していない方の多くは「もう働きたくない」わけではありません。厚生労働省の調査でも「条件さえ合えばまた働きたい」と考えている潜在歯科衛生士は一定数存在することが確認されています。育休・産休制度の整備、時短勤務対応、フレキシブルな勤務形態の導入は、単なる福利厚生ではなく、この17万人にリーチするための「採用戦略」そのものです。
医院として「新しい人を採用しよう」という視点だけでなく、「離れてしまった人を戻せる環境を作る」という視点が、今後の人材確保に直結します。
参考:潜在歯科衛生士の実態と復職支援について(日本歯科衛生士会)
https://www.jdha.or.jp/pdf/outline/fukusyokusien.pdf
歯科衛生士の不足は、入り口(新規採用)の問題だけでなく、出口(離職)の問題でもあります。
日本歯科衛生士会の「第7回歯科衛生士の勤務実態調査報告書」によると、転職経験がある歯科衛生士の割合は約76〜80%に達しています。さらに、3回以上転職した経験者は37.2%にのぼり、現在の職場での勤務年数が5年未満の歯科衛生士は約38.7%という調査結果もあります。これは平均すれば、約4〜5年ごとに職場を変えているイメージです。離職率が高い原因は、主に以下の4つの層に分けられます。
🔴 ①ライフイベントによる離職
結婚・出産・育児・配偶者の転勤・親の介護など、本人の意志とは別に生活が変わることで離職せざるを得ないケース。歯科衛生士の女性比率の高さから、この層の占める割合は最も大きくなります。
🟠 ②人間関係・院内の空気
院長との軋轢、スタッフ間の派閥、悪口や愚痴が絶えない昼休み。歯科医院は少人数で密な環境のため、一度関係が悪化すると逃げ場がなくなります。退職理由として「院長との人間関係が合わなかった」を挙げる歯科衛生士は、全体の約29%という調査もあります。人間関係だけで3割近くが離職している計算です。これは深刻な数字といえます。
🟡 ③給与・待遇への不満
歯科衛生士の全国平均月収は約29万7,600円で、全職種平均(約31万8,300円)よりやや低い水準です。さらに、現在の待遇改善を望む歯科衛生士は実に72.5%に達しているという調査結果があります。特に「昇給の仕組みがない」「経験を積んでも給与が上がらない」という不満は、5〜10年目のベテラン層に多くみられます。この層が辞めると、医院にとって最も大きなダメージになります。
🟢 ④職場環境・業務内容への不満
衛生管理が徹底されていない、歯科技工士の仕事まで担わされる、休みが取りにくい、残業代が出ない——こうした環境は、向上心の高い歯科衛生士ほど耐えられない要因になります。学校教育で徹底的な感染管理を学んだあと、消毒が不十分な職場に出ると強い違和感を覚えるという声は少なくありません。
4つの層のうち、①は対策に時間がかかりますが、②〜④は院長・管理職の判断でかなりの部分を改善できます。まずは②〜④を丁寧に見直すことが定着率向上への最短ルートです。
参考:日本歯科衛生士会「歯科衛生士の勤務実態調査報告書(第7回)」
https://www.jdha.or.jp/pdf/aboutdh/r2-dh_hokoku.pdf
供給面から見ると、問題はさらに根深くなります。毎年国家試験を経て誕生する歯科衛生士の数は約7,000人前後で推移していますが、この数字が今後安定して増え続けるかは不透明です。
理由のひとつが、歯科衛生士養成校の定員割れです。全国歯科衛生士教育協議会の調査(令和6年度)によると、入学者数が定員に満たない養成校が全体の73.1%に達しており、本調査開始以降で最も高い割合を記録しています。養成校に入学する学生が減れば、3〜4年後の供給も当然細ります。
また、歯科衛生士という職業を目指すためのハードル自体も高い点は見逃せません。国家資格取得のためには最低3年間の専門学校・短大、または4年制大学への進学が必要です。費用の目安は3年制専門学校でも200〜300万円以上かかることが多く、社会人や歯科助手として働きながら目指す場合は特に大きな負担になります。
🎓 歯科衛生士国家資格の概要
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 受験資格 | 3年制専門学校・短大または4年制大学卒業 |
| 試験頻度 | 年1回 |
| 合格率 | 約95% |
| 試験内容 | 正答率60%以上 |
合格率自体は約95%と高い水準ですが、受験資格を得るまでの学習期間と費用というハードルが、参入者数を抑制しています。つまり「なりたくてもなれない」人が一定数生まれている構造です。
さらに、養成校の定員割れが続く背景には少子化の影響もあります。そもそも10代〜20代前半の若い人口が減れば、専門学校全体への入学者が減るのは必然です。即効性のある解決策は少ないですが、「歯科助手として入社した人に学費補助を行い、歯科衛生士資格取得を支援する」という取り組みを行う歯科医院は、独自の人材パイプラインを育てることができるため、長期的な視点で有効な戦略です。
参考:厚生労働省「歯科衛生士の業務のあり方等に関する検討の進め方(案)」
https://www.mhlw.go.jp/content/10804000/001526334.pdf
歯科衛生士不足が長期化するにつれて、採用にかかるコストも膨らんでいます。求人サイト掲載だけで数万円〜20万円程度かかるのが一般的ですが、人材紹介会社を利用した場合の相場は年収の20〜30%程度、額にすると75万〜110万円前後になることも珍しくありません。
費用対効果の観点から見ると、1人採用するのに100万円近いコストをかけながら、入職後1〜2年で退職されてしまえば、そのコストは丸ごと損失になります。これが繰り返されると、採用費用だけで年間200〜300万円以上を失う医院も実際に存在します。これは痛い出費ですね。
ここで「意外な視点」をひとつ提示します。多くの歯科医院では、人手不足になると「採用活動を強化しよう」という発想になりがちです。しかし採用強化と定着率改善を同時に進めなければ、「ざるに水を注ぐ」状態になります。入り口から入ってきた人が、また別の出口から流れ出ていくだけです。
定着率を1%改善するコストと、採用活動にかかるコストを比較すると、ほとんどのケースで「定着率改善」の方がコストパフォーマンスは高くなります。たとえば、月5,000円の手当増額で1人の離職が防げれば、年間60,000円の投資で100万円の採用コストを節約できる計算です。つまり定着率の改善が条件です。
もうひとつ見逃されがちなのが、「潜在歯科衛生士へのアプローチ」です。一般の求人サイトや人材紹介会社に頼るだけでなく、子育て中・ブランク中の歯科衛生士が「ここなら戻れる」と感じる情報発信を行うことは、コストを抑えながら採用につなげる現実的な手段です。各都道府県の歯科衛生士会が開催している復職支援セミナーとの連携も一つの選択肢として知っておくと役立ちます。
参考:歯科衛生士の採用費用・コストの解説
https://jobjob-jp.com/tips/472/
ここまで不足の理由を見てきました。では、具体的に何を変えれば歯科衛生士は「この医院に留まりたい」と感じるようになるのでしょうか?実態調査や現場の声をもとに、実践的な改善策を整理します。
✅ ① ワークライフバランスを可視化する
「有給が取りやすい」「育休・産休制度が整っている」という事実は、求人票に明記しないと伝わりません。「実は使えるのに記載していなかった」という医院は今すぐ情報を更新してください。特に時短勤務の可否、土日の休診日数、診療終了時刻は歯科衛生士が求人を見るときに最初に確認する項目です。「18時には上がれる」という情報が定着率を大きく左右することがあります。これは使えそうです。
✅ ② 給与・評価制度に透明性を持たせる
「経験を積めば昇給する」という文化があっても、それが明文化されていなければ不安は消えません。経験年数別・スキル別の賃金テーブルを整備し、「何をすると給与が上がるか」を明示することが重要です。現在の待遇改善を望む歯科衛生士が72.5%いるという事実は、逆にいえば評価制度を整えるだけで72.5%の不満層にアプローチできる可能性があるという意味でもあります。
✅ ③ 人間関係のマネジメントを「院長の仕事」として位置づける
院長との人間関係が原因で辞める歯科衛生士が約29%いるという事実は、人間関係は「運」ではなく「管理できるもの」として捉えなければならないことを示しています。定期的な1on1面談、スタッフの意見が反映される仕組み、ネガティブな発言に対するルール整備は、小規模医院でも取り入れられる具体的なアクションです。院内の雰囲気が変わると、採用においても「あそこは人間関係がいい」という口コミが生まれ始めます。これが原則です。
✅ ④ 教育体制とキャリアパスを整える
「この医院で働いていれば成長できる」という実感は、定着率を大きく左右します。新人にはOJT担当をつけるマンツーマン研修体制、中堅・ベテランには外部研修への参加支援や学会費補助、歯科助手から歯科衛生士を目指す人には学費補助制度——これらは採用コストを大幅に上回る投資対効果を生む場合があります。
✅ ⑤ 業務範囲の明確化と歯科助手の活用
歯科衛生士に本来の業務以外の雑務が集中していると、専門職としての誇りが削られます。器具の準備・洗浄・受付業務などを歯科助手に分担し、歯科衛生士が患者に向き合う時間を確保する体制は、離職防止に直結します。「自分の仕事がちゃんとできる環境」であることは、給与水準と並んで重要な定着要因です。
改善のスタート地点は、今在籍している歯科衛生士への丁寧なヒアリングです。「何があれば続けやすいですか?」という一言が、最も安価で有効な離職防止策になることも多くあります。まずそこから始めれば大丈夫です。