オートクレーブでハンクス液を滅菌すると、実験が台無しになります。
ハンクス液(Hanks' Balanced Salt Solution、略してHBSS)は、細胞生物学や生化学の実験において広く使われる生理的緩衝塩類溶液です。1976年にJohn H. Hanksが開発し、それ以前の生理的塩溶液を大幅に改良した処方として確立されました。
HBSSの最大の特徴は、「平衡塩溶液(Balanced Salt Solution)」という名前が示すとおり、血清や組織液と等張になるように成分が精密にバランス調整されている点にあります。細胞に不可欠な無機塩を含み、pHと浸透圧を生理的な範囲に維持しながら、細胞の基本的なエネルギー源となるグルコースも配合しています。これが、PBSなどのシンプルな緩衝液との大きな違いです。
HBSSは主に次のような場面で活躍します。
| 用途 | 説明 |
|---|---|
| 細胞の洗浄 | 培養細胞のトリプシン処理前後の洗浄工程 |
| 組織・細胞の短期保存 | 実験操作中に細胞を生理的状態で維持する |
| 細胞懸濁液の調製 | 各種アッセイ用の細胞懸濁液調製 |
| 脱落歯の保存 | 外傷で抜けた歯の歯根膜細胞を最大24時間保護 |
| 透析・免疫実験 | フェノールレッド不含タイプは蛍光実験にも対応 |
特筆すべき応用例として、口腔外科・歯科領域での脱落歯保存液があります。外傷で歯が抜けた際、HBSSに保管すれば最大24時間にわたって歯根膜細胞の生存率が維持できると報告されています。牛乳での保存が数時間程度なのと比べると、その差は歴然としています。HBSS(ハンクス平衡塩溶液)は脱落歯の保存液として世界標準の地位を確立しており、医療・研究の両分野で不可欠な試薬です。
また、HBSSにはフェノールレッドを含む①タイプと、含まない②タイプの2種類があります。①タイプはpHを目視で確認できる利点があり、②タイプはフェノールレッドが実験結果に干渉しない蛍光アッセイや免疫実験に向いています。用途に合わせた選択が大切です。
アキュディア™ HBSS-ハンクス液①(島津ダイアグノスティクス)|製品情報・組成詳細
ハンクス液を正しく調製するには、各成分がなぜ含まれているのかを理解することが重要です。市販の粉末タイプ(例:アキュディア™ HBSS-ハンクス液①)では、1L分(9.8g)中に以下の成分が配合されています。
| 成分名 | 配合量(1L分) | 主な役割 |
|---|---|---|
| 塩化ナトリウム(NaCl) | 8,000 mg | 浸透圧・等張性の維持 |
| 塩化カリウム(KCl) | 400 mg | 細胞内外のイオン環境維持 |
| リン酸水素ナトリウム(二水和物) | 60 mg | 緩衝作用(pH安定化) |
| リン酸二水素カリウム(無水) | 60 mg | 緩衝作用(pH安定化) |
| 硫酸マグネシウム(七水和物) | 100 mg | 酵素反応・細胞機能の補助 |
| 塩化マグネシウム(六水和物) | 100 mg | マグネシウムイオン源 |
| 塩化カルシウム(無水) | 140 mg | 細胞接着・シグナル伝達 |
| ブドウ糖(D-Glucose) | 1,000 mg | 細胞の基本的エネルギー源 |
| フェノールレッド(①のみ) | 6 mg | pH指示薬(目視でpH確認) |
| 炭酸水素ナトリウム | 0.2〜0.35 g(別添加) | pH最終調整・緩衝能の補強 |
全成分の中で最も重要な働きをするのが、塩化ナトリウムです。全体の約82%を占め、溶液の等張性を決定づけます。浸透圧が生理的範囲(285〜295 mOsm/kg)から外れると、細胞はたちまち損傷を受けるため、この成分量の正確な秤量が調製の要になります。
グルコース(ブドウ糖)が含まれている点も、PBSにはない特徴です。PBSのみに細胞を懸濁した場合、エネルギー源が断たれるため数十分で細胞ストレスが高まり、長時間の処置中に細胞死が起きやすくなります。HBSSのグルコース1,000mgは、細胞を増殖培地の外で短時間維持するのに十分な量として設計されています。
フェノールレッドはpH指示薬の役割を担います。溶液の色がアルカリ性では赤紫色、中性(pH7付近)では赤色、酸性では黄色に変わります。細胞培養の至適pHはpH6.8〜7.2とされており、フェノールレッド入りのHBSSであれば試験紙不要で溶液の状態が一目でわかります。これは実験の品質管理において非常に有効な手がかりです。
ハンクス液を粉末から調製する際の正しい手順を、具体的に解説します。市販の粉末製品(9.8 g/1L分)を使用する場合のプロトコルです。
【必要なもの】
【調製手順】
ステップ1:溶解
粉末9.8 gを約900 mLの蒸留水に加えます。マグネチックスターラーで穏やかに攪拌し、完全に溶解するまで混合します。溶解が不完全な状態でメスアップすると、成分濃度にばらつきが生じるため注意が必要です。完全な溶解が条件です。
ステップ2:メスアップ
完全に溶解したら、蒸留水を加えて全量を1,000 mLに合わせます。メスフラスコを使用すると正確なメスアップが可能です。
ステップ3:炭酸水素ナトリウムの添加とpH調整
炭酸水素ナトリウムを0.2〜0.35 gの範囲で少量ずつ添加します。この量の範囲内で、空気相下・37℃でのpHはおよそ7.3〜7.6になります。添加後はpHメーターで確認し、目標pH(通常7.2〜7.4)に合わせてください。pH調整が全工程の核心です。
炭酸水素ナトリウムの添加量は「適量」とされており、使用する環境(室温・CO₂濃度)によって最適量が変わります。0.20 gから始めて少しずつ増量しながらpHを確認する方法が現実的です。
ステップ4:ろ過滅菌
pH調整後は、速やかに孔径0.45〜0.2μmのメンブレンフィルターでろ過滅菌します。「すぐに行う」という点が重要で、時間が経過すると大気中のCO₂を吸収してpHが変動します。直ちに滅菌するのが原則です。
ここで絶対に避けなければならないのがオートクレーブ(加熱滅菌)の使用です。HBSSに含まれるグルコースや炭酸水素ナトリウムは高温・高圧に弱く、オートクレーブをかけると分解・変性が起きて溶液の性状が大きく変わります。PBSはオートクレーブ可能ですが、HBSSはろ過滅菌のみが正解です。
ステップ5:保存
滅菌後のHBSSは、滅菌済みボトルに密栓して冷暗所(2〜10℃)で保存します。製造後2年間が使用期限の目安とされていますが、開封後は汚染リスクが高まるため、なるべく早めに使い切ることが推奨されます。
Gibco 細胞培養基礎ハンドブック(Thermo Fisher Scientific)|培地・バッファーの基礎知識・調製法を詳説
HBSSとPBSはどちらも細胞実験の洗浄液・懸濁液として使われますが、その組成と使用目的には明確な違いがあります。間違った選択をすると、実験結果に悪影響が出ることがあります。
【組成の主な違い】
| 項目 | HBSS(ハンクス液) | PBS |
|---|---|---|
| グルコース | 含む(1,000 mg/L) | 含まない |
| Ca²⁺・Mg²⁺ | 含む(+タイプ)または選択可 | 通常含まない(PBS-) |
| 炭酸水素ナトリウム | 含む(少量) | 含まない |
| pH緩衝系 | リン酸+重炭酸の二重緩衝 | リン酸単独 |
| 滅菌方法 | ろ過滅菌のみ | オートクレーブ可 |
| 保管温度 | 2〜10℃ | 室温〜4℃ |
PBSはシンプルな組成で調製が容易であり、オートクレーブによる滅菌も可能なため、実験室で最も手軽に扱えるバッファーです。一方、HBSSはグルコースとCa²⁺・Mg²⁺を含むため、細胞を生きた状態でより長く維持したい場合や、生着率を高めたい場合に優位です。
実際の実験での使い分けポイントを整理すると次のようになります。
HBSSがPBSより優れている点のひとつは、二重緩衝系(リン酸+重炭酸)を持つことです。ただし、この特性には一つの落とし穴があります。CO₂インキュベーター内でHBSSを使用すると、インキュベーター内の高いCO₂濃度によって重炭酸緩衝系が過剰に働き、溶液が急速に黄変(pH低下)します。HBSSはCO₂インキュベーターで使用しないことが原則です。やむを得ずCO₂インキュベーターを使わなければならない場合は、必ず密栓した状態で行うことが必要です。
Thermo Fisher Scientific|平衡塩類溶液(HBSS・EBSS・PBS)の種類・特性比較
HBSSの調製は手順自体はシンプルですが、細かい落とし穴が複数あります。失敗例を事前に知っておくことで、大切な実験を守ることができます。
❌ 失敗例1:オートクレーブで滅菌した
最も多い失敗です。「PBSと同じ感覚で加熱滅菌してしまった」というケースが後を絶ちません。HBSSに含まれるグルコースは121℃の高圧蒸気にさらされると焦糖化(カラメル化)・分解が起き、培養液が茶褐色に変色して使用不能になります。HBSSの滅菌はかならずろ過滅菌、これが絶対のルールです。
❌ 失敗例2:炭酸水素ナトリウムを先に入れた
粉末を溶解する前に炭酸水素ナトリウムを加えると、溶液中で炭酸ガスが発生しやすくなりpH調整が困難になります。必ず粉末を完全に溶解してからNaHCO₃を添加することが正しい順序です。順序を守ることが条件です。
❌ 失敗例3:pH調整後にろ過滅菌を後回しにした
炭酸水素ナトリウムを加えたHBSSを室温で放置すると、大気中のCO₂との平衡が変化してpHが徐々に変動します。pH調整後は30分以内、できれば直ちにろ過滅菌するのが理想です。時間が経過するとpHが変わります。
❌ 失敗例4:CO₂インキュベーター内でオープンのまま使用した
前節でも述べたとおり、HBSSはCO₂インキュベーター内の高CO₂環境で急速に酸性化します。フェノールレッド入りのHBSSを使っている場合、溶液の色が赤色から黄色に変わっていたら要注意のサインです。これは重篤な失敗になりえます。
❌ 失敗例5:精製度の低い水で調製した
HBSSは細胞に直接触れる溶液であるため、水の純度が実験の信頼性に直結します。水道水や一般的な精製水ではエンドトキシン(細菌由来の毒素)が混入しているリスクがあり、細胞への毒性が生じることがあります。超純水(MilliQ水など)または注射用水の使用を基本としてください。
また、開封後の粉末保管にも注意が必要です。HBSSの粉末は吸湿しやすい性質があり、空気中の水分を吸収すると成分が変質する可能性があります。未使用分は密栓して乾燥した冷暗所(2〜10℃)に保管し、吸湿を防ぐことが求められます。これは見落とされがちな管理ポイントです。
粉末の開封後はなるべく早く使い切ることがメーカーの推奨事項であり、調製した溶液についても使用期限(製造後2年)が過ぎたものは品質を保証できないため使用を避けるべきとされています。
Sigma-Aldrich|細胞培養培地・バッファーの調整方法・注意事項(HBSS含む)
せっかく正しく調製したHBSSも、保存方法が適切でなければ品質が劣化し、実験結果に悪影響を及ぼします。保存管理のポイントをしっかり押さえておきましょう。
粉末(未溶解)の保存
未開封の粉末は、密栓した状態で乾燥した冷暗所(2〜10℃)に保管します。メーカーが保証する使用期限は製造後2年間で、ラベルに表示されています。この期限を過ぎた製品は品質保証の対象外となるため、使用しないことが原則です。期限切れの使用は厳禁です。
開封後の粉末は、残りを再保存する場合には容器を密栓し、汚染・吸湿に十分注意する必要があります。吸湿が進んでいる場合は、粉末が固まったり変色していることがあるため、外観の確認も重要です。
調製済み溶液の保存
ろ過滅菌済みのHBSSは、滅菌済みのボトルに密栓して2〜10℃の冷暗所に保管します。一般的な保存期間の目安は1〜2週間程度とされており、長期保存はお勧めできません。厳密な保存期間はバリデーション(自施設での検証)が求められます。
保存中の品質確認として、フェノールレッド入り(①タイプ)を使用している場合は溶液の色を毎回確認する習慣をつけると安心です。正常なpH(7.2〜7.4)では鮮やかな赤色ですが、黄色に変わっていれば酸性化(pH低下)のサインです。変色に気づいたら迷わず廃棄することが大切です。
廃棄時の注意
使用後のHBSSや器材は、オートクレーブ等で滅菌処理したうえで廃棄物に関する規定に従って処理します。検体と接触したものは感染リスクがあるものとして取り扱うことが定められています。実験室の安全管理上、廃棄手順の遵守は必須です。
島津ダイアグノスティクス|アキュディア™ HBSS-ハンクス液①の製品詳細・貯法・使用期限情報