チロシンキナーゼ阻害薬は、がん治療において重要な役割を果たす分子標的治療薬の一種です。チロシンキナーゼは細胞内のシグナル伝達に関わる酵素で、細胞の増殖や分化、生存に関与しています。がん細胞ではこのチロシンキナーゼが過剰に活性化していることが多く、チロシンキナーゼ阻害薬はこの活性を選択的に阻害することでがん細胞の増殖を抑制します。
チロシンキナーゼ阻害薬には様々な種類があり、主なものとしては以下が挙げられます。
これらの薬剤は慢性骨髄性白血病や腎細胞がん、肺がんなど様々ながん種の治療に使用されています。チロシンキナーゼ阻害薬は従来の細胞毒性抗がん剤と比較して、より選択的にがん細胞を標的とするため、一般的には副作用が少ないとされていますが、口腔内を含む様々な部位に特有の副作用を引き起こすことが知られています。
チロシンキナーゼの構造は、細胞外リガンド結合領域、膜貫通部分、細胞内チロシンキナーゼ領域からなる単鎖分子であり、この複雑な構造が様々な生理学的プロセスに関与しています。
薬剤関連顎骨壊死(Medication-Related Osteonecrosis of the Jaw: MRONJ)は、特定の薬剤の使用に関連して発症する顎骨の壊死を特徴とする疾患です。当初はビスホスホネート製剤関連顎骨壊死(BRONJ)として知られていましたが、その後デノスマブなどの骨吸収抑制薬関連顎骨壊死(ARONJ)として認識されるようになりました。さらに研究が進むにつれ、チロシンキナーゼ阻害薬を含む様々な薬剤がMRONJに類似した症状を引き起こす可能性があることが明らかになり、現在ではこれらを総称してMRONJと呼ぶようになっています。
チロシンキナーゼ阻害薬がMRONJを引き起こすメカニズムについては、まだ完全には解明されていませんが、以下のような要因が考えられています。
日本顎骨壊死検討委員会のポジションペーパー2023によると、チロシンキナーゼ阻害薬はMRONJに類似した疾患を引き起こす可能性がある薬剤として明確に位置づけられています。特にスニチニブなどのマルチキナーゼ阻害薬は、単独使用で口腔粘膜炎を引き起こすことが報告されており、注意が必要です。
チロシンキナーゼ阻害薬を使用している患者では、様々な口腔内有害事象が報告されています。日本の研究によると、チロシンキナーゼ阻害薬使用中の患者における口腔内有害事象の発生率は他の分子標的治療薬と比較して高い傾向にあります。
特にスニチニブによる口腔内有害事象の報告が多く、ある研究では4例の口腔内有害事象が確認されています。そのうち2例はスニチニブのみを使用している時に症状が現れました。これらの症例では、早期から口腔機能管理を行っていたため口腔粘膜炎は重症化しませんでしたが、この薬剤は使用前から積極的に口腔機能管理を行うことが必要であると考えられています。
他のチロシンキナーゼ阻害薬では、イマチニブ(BCR-ABLチロシンキナーゼ阻害薬)やソラフェニブによる口腔内有害事象も報告されています。これらの症例では、口腔粘膜炎や口腔内潰瘍、口腔乾燥などの症状が見られました。
また、モノクローナル抗体薬との併用によって口腔内有害事象のリスクが高まる可能性も指摘されています。例えば、ベバシズマブ(抗VEGF抗体)やセツキシマブ(抗EGFR抗体)などのモノクローナル抗体薬とチロシンキナーゼ阻害薬の併用療法を受けている患者では、口腔内有害事象の発生率が上昇することが報告されています。
これらの臨床症例から、チロシンキナーゼ阻害薬を使用している患者では、定期的な口腔内検査と早期からの口腔機能管理が重要であることが示唆されています。特に、治療開始前の口腔内スクリーニングと、治療中の継続的な口腔ケアが推奨されます。
チロシンキナーゼ阻害薬を投与されている患者の歯科治療においては、MRONJのリスクを考慮した特別な配慮が必要です。以下に主な注意点をまとめます。
チロシンキナーゼ阻害薬を投与されている患者の歯科治療においては、常にMRONJのリスクを念頭に置き、予防的アプローチを重視することが重要です。また、担当の腫瘍医との緊密な連携を保ちながら、患者個々の状況に応じた最適な治療計画を立てることが求められます。
チロシンキナーゼは歯科矯正治療においても注目されている分子です。特に、歯の移動メカニズムや移動速度に影響を与える因子として研究が進められています。
歯の移動促進効果が認められる方法として、外科的手法、薬理学的手法、物理学的手法が報告されていますが、その中でもチロシンキナーゼに関連する薬理学的アプローチが注目を集めています。
c-fmsは細胞外リガンド結合領域、1つの膜貫通部分と細胞間チロシンキナーゼ領域からなる単鎖分子であり、M-CSF受容体としても破骨細胞前駆細胞上に存在しています。この受容体を介したシグナル伝達は、破骨細胞の分化や活性化に重要な役割を果たしており、歯の移動メカニズムにも関与しています。
また、甲状腺ホルモンであるチロキシン(サイロキシン)も歯の移動に影響を与えることが報告されています。Seifiらの研究によると、ラットの歯の移動実験においてチロキシン投与によって、投与21日後には対照群の0.23mmに対して投与群では0.45mmの移動が観察されました。これはチロキシンがインターロイキン1(IL-1)を介して骨のリモデリングを増加させ、吸収を刺激するためと考えられています。
さらに、チロシンキナーゼ阻害薬が歯の移動に与える影響についても研究が進められています。一部のチロシンキナーゼ阻害薬は骨代謝に影響を与えるため、理論的には歯の移動速度に影響を与える可能性があります。しかし、現時点ではチロシンキナーゼ阻害薬を服用している患者の矯正治療に関する明確なガイドラインはなく、個々の症例に応じた慎重な対応が求められます。
この分野の研究は日々進展しており、将来的にはチロシンキナーゼを標的とした新たな歯の移動促進法が開発される可能性もあります。歯科矯正医は最新の研究動向に注目し、エビデンスに基づいた治療を提供することが重要です。
チロシンキナーゼ阻害薬を投与される患者に対する適切な歯科医療を提供するためには、医科歯科連携が不可欠です。以下に、投与前後の歯科医療連携プロトコルを示します。
チロシンキナーゼ阻害薬の投与開始前に、すべての患者に対して歯科スクリーニングを実施することが推奨されます。日本顎骨壊死検討委員会のポジションペーパー2023では、骨粗鬆症治療を開始する患者は全例が歯科スクリーニングの対象と明記されていますが、同様の考え方がチロシンキナーゼ阻害薬を含む分子標的治療薬にも適用できます。
投与前の歯科治療では、以下の点に注意します。
チロシンキナーゼ阻害薬投与中の患者に対しては、以下のような継続的な歯科管理が重要です。
チロシンキナーゼ阻害薬を投与されている患者の適切な管理のためには、腫瘍内科医と歯科医師の緊密な連携が不可欠です。
このような包括的な医科歯科連携プロトコルを実施することで、チロシンキナーゼ阻害薬を投与されている患者のMRONJリスクを最小限に抑え、QOLの維持・向上に貢献することができます。
医科歯科連携に関する詳細な情報は、日本口腔外科学会のウェブサイトで確認することができます。