調味料の「味の素」を使ってCAD/CAMの精度が上がる、は完全な都市伝説です。
「味の素」という名前を聞いて、台所の調味料しか思い浮かばない歯科従事者の方がほとんどではないでしょうか。ところが実は、この食品メーカーが歯科現場のデジタル機器の根幹を支える素材を製造しているのです。
その素材が「ABF(Ajinomoto Build-up Film=味の素ビルドアップフィルム)」と呼ばれる層間絶縁材料です。パソコンやデジタル機器の心臓部であるCPU(中央演算処理装置)の内部には、無数の電子回路が何層にも積み重なっています。それぞれの回路の間には「絶縁材」が必要であり、電気の流れを正確にコントロールしなければなりません。つまり絶縁材とは、CPU内部で「通すべき電気を通し、通してはいけない電気を遮断する」役割を担う、非常に精密な素材なのです。
ABFが登場する以前、絶縁材は液体(インク状)のものが使われていました。これは気泡が入りやすく、厚みの均一化が難しいという問題を抱えていました。それを解決したのが、フィルム状の絶縁材料です。つまり絶縁材のフィルム化が基本です。
味の素グループは1970年代から、アミノ酸研究のノウハウを応用して絶縁性をもつエポキシ樹脂の基礎研究を続けてきました。そして1990年代に、このアミノ酸由来の技術をCPU用絶縁材に応用することに成功。1999年に大手半導体メーカーへの採用が決まり、それ以来20年以上にわたって世界中のCPUに使われ続けています。
現在、ABFは全世界の高性能CPU向け層間絶縁材のほぼ100%のシェアを持っています。これはスマートフォンのような小型端末から、AI開発用の大型サーバー、そして歯科用CAD/CAMや口腔内スキャナーを動かすためのPCまで、あらゆるデジタル機器に搭載されているということを意味します。世界中のパソコンから「味の素」がなくなれば、新しいCPUは製造できないということですね。
| ABFの主な特長 | 具体的な効果 |
|---|---|
| フィルム状で均一な厚み | 気泡・印刷ムラによる不良品の低減 |
| 表面平滑性が高い | マイクロメートル単位の微細配線形成が可能 |
| レーザ加工が容易 | 銅箔除去などの余分な工程が不要 |
| 耐熱性に優れる | CPUの発熱(100℃超)にも対応 |
| 両面同時加工が可能 | 生産性の向上・製造コストの削減 |
参考:ABFの技術的特長と開発経緯の詳細が掲載された、味の素グループ公式の解説ページです。
ABF | イノベーションストーリー | 研究開発 | 味の素グループ
食品メーカーがなぜ半導体絶縁材を作れるのか、不思議に感じる方も多いはずです。これはいいことですね。実はABFの誕生には、食品化学とマテリアルサイエンスの意外な接点がありました。
グルタミン酸ナトリウム(うま味成分)を発酵法で製造すると、大量の副産物が生じます。この副産物の処理に困った味の素のエンジニアたちは、1960〜70年代にかけて「何か使えるものはないか」と研究を続けました。そこで注目したのが、アミノ酸が持つ絶縁性と耐熱性というユニークな化学特性です。
アミノ酸は有機物と無機物の中間的な性質を持ちます。この特性を活かし、エポキシ樹脂(絶縁性をもつ有機物)と無機フィラー(補強材となる微粒子)を均一に混ぜ合わせる技術を磨き上げたのが、ABF開発の核心です。有機物と無機物は本来混ざりにくい性質を持っているため、これを均一分散させる技術は非常に難易度が高く、アミノ酸研究で積み上げた知識が活きたのです。
1996年には米国の大手CPUメーカー(インテルとされる)から「アミノ酸技術を応用した絶縁・耐熱フィルムを開発してほしい」という依頼を受け、正式に半導体絶縁材料の開発がスタートしました。そして1999年に量産化に成功。競合他社が当時まだ液体絶縁材料を使っていた中で、フィルム化という独自路線を貫いたことで、世界標準を取ることができたのです。アミノ酸研究が条件です。
現在のABFはGX-92(標準グレード)、GX-T31(低粗度・低熱膨張グレード)、GZ-41(高ガラス転移温度グレード)、GL-102(低誘電・低熱膨張・高Tgグレード)など複数の品種が揃い、AIサーバー用のハイエンドGPUから一般的なCPUまで幅広い要求に応えています。
参考:ABFの品種・グレード・使用方法の仕様が確認できる、味の素ファインテクノ株式会社の製品ページです。
層間絶縁材料 味の素ビルドアップフィルム(ABF) | 味の素ファインテクノ株式会社
歯科従事者にとって身近な口腔内スキャナーやCAD/CAMシステムが、なぜABFと関係するのかを具体的に見ていきましょう。
口腔内スキャナー(IOS)は、患者の口腔内を3Dデータとして高速にキャプチャするための機器です。撮影した数百枚のフレームデータをリアルタイムで合成し、滑らかな3Dモデルを生成するためには、非常に高いCPU性能とGPU性能が必要です。これは使えそうです。
たとえば代表的な機種「Medit i700」の推奨スペックはCPU:Intel Core i5 12500以上、メモリ:32GB以上、GPU:Nvidia RTX3060 6GB以上と定められています。これは一般的なビジネス用PCでは到底満たせないスペックであり、価格にして20〜25万円程度のハイスペックPCが必要です。歯科用CADソフト「exocad」でも、推奨CPU:Intel Core i7 9700k、メモリ:16GB DDR4、GPU:Nvidia RTX2060(6GB)以上が求められています。
これらすべてのCPUには、ABFが使われています。つまり、歯科医院に置かれたスキャナーが正確に動くかどうかは、間接的にABFの品質と供給安定性に依存しているということです。ABFが条件です。
また3Dプリンターについても同様です。歯科用3Dプリンターはモデルのスライスデータ生成・造形制御にCPUを使い、品質の高い造形物を短時間で出力するにはCore i5以上が最低限必要とされています。歯科のデジタルトランスフォーメーション(DX)が進めば進むほど、より高性能なCPUが必要になる。そして高性能なCPUには必ずABFが使われている、というわけです。
参考:歯科用CAD/CAMや口腔内スキャナーに必要なPCスペックをメーカー別に比較した、歯科技工士が執筆した実践的な解説ページです。
歯科用CAD/CAMや口腔内スキャナーにおすすめのPCスペック | Mセラミック工房
「ゲーム機が品薄なのは味の素のせいだ」という話題がSNSで広まったのは2021年のことです。PS5やXbox Series Xの供給不足の一因として、ABFの不足が取り沙汰されました。痛いですね。しかし、その影響は実はゲーム業界だけではありませんでした。
2021年の世界的な半導体不足の「真のボトルネック」はシリコンウエハそのものではなく、ABFフィルムを使ったパッケージ基板(ABF基板)の供給不足だった、という分析が複数の調査機関から出ています。Intel・AMD・NVIDIAの幹部がこの問題を直接言及したほどです。当時、ABF基板の生産には新工場の立ち上げに2〜3年のリードタイムが必要であり、急激な需要増に対応できませんでした。
この影響が歯科業界にどう波及したかというと、歯科用デジタル機器(口腔内スキャナー、CAD/CAMミリングマシン、3Dプリンターに組み込まれるPCやコントローラー基板)の納期が大幅に遅延したケースが報告されています。通常3〜4週間で納品される機器が、半年以上待ちになったケースもあったとされています。これは実際に導入を検討していた歯科医院や技工所にとって、診療計画や設備投資計画の狂いという実害を生みました。
現在(2026年2月時点)は供給が回復し、ABF基板市場は年率9.8%成長で拡大を続けています。AI需要(ChatGPTなどの生成AI、自動運転、医療AI)が高性能CPU・GPUへの需要を押し上げており、ABFの重要性はむしろ高まっています。デジタル歯科市場も2032年までに206億米ドル(CAGR 11.53%)規模に成長すると予測されており、歯科用デジタル機器の需要も今後加速します。
もし次に大規模な半導体不足が起きれば、歯科用デジタル機器の調達にも影響が出る可能性があります。ABFの供給動向を定期的にウォッチし、設備投資計画を立てる際には余裕を持ったタイムラインを設けておくことが、現実的なリスクヘッジになります。ABF供給動向の確認が原則です。
参考:2021年のABF供給不足がどのように半導体不足の主因となったかを詳細に解説した記事です。
味の素製材料の供給不足が半導体供給のボトルネックに | global-net.co.jp
ここまでの内容は「なるほど、面白い話だ」で終わりにするには惜しい知識です。実際に歯科現場で活かせる具体的なポイントを整理しましょう。
まず最も直接的に役立つのは、デジタル機器の購入・更新タイミングの判断です。口腔内スキャナーやCAD/CAMシステムの核心はCPU性能です。CPUの進化サイクルはおよそ2〜3年で、ABFも新グレードが継続的に開発されているため、2世代以上古いCPUのシステムは処理速度や精度の面で明らかな差が出始めます。一方で、ABF供給が逼迫するタイミング(AI需要爆発期など)に機器更新が重なると、納期リスクが高まります。機器更新は計画的に、が基本です。
次に、患者さんへの説明力という観点からも使えます。「口腔内スキャナーで歯型を取る理由」を説明するとき、多くの歯科従事者は「痛くない・精度が高い」という直接的なメリットを伝えるにとどまります。しかしその背景に「世界最高水準の半導体技術(実は味の素由来)が使われている」という事実を添えることで、患者の印象に残る独自の説明が生まれます。患者の技術への信頼感が高まれば、治療計画の合意率や満足度の向上にもつながります。これは意外な効果ですね。
さらに独自視点として注目したいのが、「医療×食品×素材科学の越境イノベーション」というテーマです。味の素のABFは「専門外の技術が突破口になった」事例の最良の一つです。歯科においても同様に、歯科以外の産業から取り入れられた技術(たとえばセラミック材料の航空宇宙産業由来の焼成技術、接着材料の半導体産業由来のボンディング技術など)が次々と登場しています。こうした「産業の壁を超えた技術」への感度を高めておくことが、今後の歯科DX対応力を左右するでしょう。
デジタル歯科市場は2025年時点で約95億米ドル、2032年には206億米ドルに達する見込みです。年率11.53%という高成長が続く中、この市場を支えるCPUの絶縁材=ABF=味の素、という知識はいまや歯科従事者にとって「教養」の一つと言えます。ABFを知れば、自院のデジタル機器の仕組みから世界の半導体サプライチェーンまで、一本の線でつながって見えてきます。
参考:デジタル歯科市場の成長予測・規模データが掲載された、市場調査レポートの概要ページです。
デジタル歯科市場規模・成長予測(2032年まで)| アットプレス
十分な情報が集まりました。記事を生成します。