あなたが手術を勧めた患者の3割は、実は手術なしで改善できる症例かもしれません。
下顎前突の患者さんが来院したとき、すべてのケースが手術の対象になるわけではありません。治療法を決める前に、症状の原因を正確に分類することが重要です。
下顎前突には3つのタイプが存在します。第一は「歯性下顎前突」で、下の前歯が前傾し上の前歯が内傾している状態です。この場合、骨格的な問題は軽微であり、矯正治療のみで改善可能です。第二は「機能性下顎前突」で、かみ合わせる際に患者さんが無意識に下顎を前方にずらして咬んでいる状態です。これは早期治療により正常な咬合に誘導できる可能性があります。第三は「骨格性下顎前突」で、下顎骨の過成長や上顎骨の劣成長が原因です。つまり、歯性と骨格性では治療の入り口が異なるということですね。
骨格性下顎前突の多くは外科矯正治療の適応となりますが、軽度から中等度であれば矯正治療のみで改善できることも多いのです。セファログラム(矯正用レントゲン)を用いた顎骨角度の分析や、顔面計測が判定の鍵になります。特に、上下顎のズレの度合いを数値化することで、手術の必要性が客観的に判断できます。
患者さんへの説明時に重要な点は、同じ「受け口」という見た目でも、原因によって治療方法が大きく異なることです。外科手術が必要な症例と、矯正治療のみで対応できる症例を混同してはいけません。診断が正確でなければ、患者さんへの不要な心理的負担につながり、治療の信頼関係を損なう可能性があります。
外科矯正治療が必要と診断された患者さんに対して、最初に説明すべき手術方法がSSRO(下顎枝矢状分割術)です。これは最も一般的な下顎骨切り術であり、下顎骨を後退させて理想的な咬合と横顔を獲得できます。
SSRO手術は、下顎の奥側を切断して内側に折り曲げ、骨を後ろに移動させる方法です。手術時間は2~4時間程度で、全身麻酔下で行われます。術後の安定性に優れており、骨同士をチタンプレートやスクリューで固定するため、癒合(くっつく)が確実です。つまり、骨が癒合後は、その位置が非常に安定するということになります。
一方、下顎枝垂直切断術(IVRO)は、顎関節への影響を最小限に抑えた手術法です。骨の癒合の際に垂直方向に力がかかるため、術後の安定性はSSROに比べてやや落ちることがあります。また、術後に「離開」という骨がずれる現象が起こる可能性があり、経過観察が重要になります。
重度の下顎前突で、同時に上顎の劣成長がある場合は、ルフォー1型骨切り術(上顎を前に出す手術)とSSROの組み合わせ、いわゆる「両顎手術」が選択されます。上顎と下顎の両方を移動させることで、より大きな改善効果が期待できるのです。入院期間はSSRO単独で1~2週間ですが、両顎手術の場合は2~3週間になることが多いです。
外科矯正治療において、最も患者さんが負担に感じるのが術前矯正の期間です。術前矯正は単なる「前置き」ではなく、手術の成功を左右する極めて重要なステップです。
術前矯正の主な目標は、(1)上下顎歯列の排列と整列、(2)歯軸の適正化、(3)上下顎の幅径(横幅)の一致を達成することです。特に重要なのは、手術直前に患者さんの前歯がさらに悪い位置に見える現象(デコンペンセーション)です。歯科医が意図的に下の前歯を前方に傾けたり、上の前歯を内側に傾けたりするのです。これにより、術後に顎が正常な位置に戻されたとき、歯が完全に噛み合うようになります。
つまり、術前矯正期間の見た目の悪化は、治療計画の一部であり、最終的な良好な結果を得るための必要なプロセスということになります。患者さんが不安になるのは当然ですが、この段階でしっかり説明し、治療のゴールイメージを共有することが重要です。
治療期間全体は3~4年程度です。内訳は、術前矯正で1~2年、手術と入院で1~2週間、術後矯正で6ヶ月~1年、保定期間で2年以上、という流れになります。特に保定期間を軽視する患者さんが多いため、装置を指示通りに使用しなければ後戻りのリスクが高まることを事前に強調すべきです。
下顎前突の手術を受ける患者さんが最も知りたいのは、「入院中はどうなるのか」「退院後の日常生活はいつから戻るのか」という具体的な情報です。
実体験に基づいた説明が信頼を生みます。
入院期間は一般的に1~2週間です。入院初日は検査とPCR検査(施設による)が行われ、術前日まで各科の医師から説明を受けます。手術当日の朝は食事や水分を制限される絶飲食指示があります。手術時間は全身麻酔下で2~4時間で、術中の痛みはありません。全身麻酔が切れた直後から痛みが出始めますが、点滴による痛み止めで管理されます。
術後の苦しさのピークは「術後3日間」です。特に術後当日から翌日にかけて、吐き気や違和感が強く出ることが多いです。これは全身麻酔の副作用によるもので、乗り物酔いしやすい人はより強く感じる傾向があります。患者さんの胃には手術中の血液が流入していることもあり、数回の嘔吐が起こることは珍しくありません。
顎間固定(上下の歯をゴムで固定する処置)は術後2~3日で開始され、これは患者さんにとって大きなストレス源となります。口が開かない状態が1週間程度続くため、鼻呼吸のみになります。鼻詰まりがひどいと息苦しさで眠れなくなることもあります。術後4~5日で痛みと腫れのピークは過ぎ、徐々に食事が流動食に切り替わります。
退院後の日常生活への復帰は段階的です。デスクワークであれば2~3週間後、体を使う仕事であれば1~2ヶ月後が目安になります。完全に腫れが引くまでには1~2ヶ月かかることを患者さんに事前に伝えることで、退院後の予期せぬ外出制限への対応が可能になります。
外科矯正治療における最大の懸念事項は、知覚異常などの後遺症です。患者さんが手術をためらう理由の多くは、「顔が麻痺しないか」という恐怖心です。
正確な情報提供がリスク軽減につながります。
SSRO手術では、下歯槽神経(下顎骨の中を通る神経)が触れられることがあります。その結果、術後に下唇やオトガイ(顎の先)の感覚が鈍くなる知覚異常が発生します。発生率は経験豊富な医師でも10~20%程度と報告されており、決して珍しくありません。ただし、重要なのは「ほぼ全例が回復する」という点です。
知覚異常の回復期間は個人差がありますが、一般的には数ヶ月~1年程度で回復します。術直後は「触った感覚がない」という完全な麻痺状態ですが、数週間で「触っているのはわかるが違和感がある」という状態に改善します。この段階で患者さんは大幅な改善を実感できます。ごく稀に完全には回復しない症例もありますが、発生率は1%以下と極めて低いです。
その他の合併症としては、感染、出血、顎関節への影響、骨の癒合不全などが挙げられます。ただし、これらも経験豊富な口腔外科医が適切に手術を行えば、発生率は非常に低いです。手術前には必ず担当医からリスク説明があり、患者さんが納得した上で同意書にサインをすることになります。
患者さんが治療を決定する際、費用は最大の判断材料になります。外科矯正治療の保険適用について、正確な情報を提供することは歯科医の責任です。
顎変形症と診断された下顎前突患者の外科矯正治療は、健康保険の適用となります。これは、顎変形症が「著しい咬合異常を伴う顎の骨格的な変形」として保険診療の対象に認められているためです。保険適用で外科矯正治療を受けるには、(1)顎口腔機能診断施設の指定を受けた矯正歯科医院、(2)顎矯正手術の施設基準を満たした病院の口腔外科、での治療が必須条件です。
保険診療の場合、矯正治療と手術を合わせた総費用は50~70万円程度が相場です。一方、自費診療では140~400万円かかることもあります。保険適用により患者さんの経済的負担は大幅に軽減されます。ただし、保険適用の矯正治療では使用できる装置が限定され、裏側矯正やマウスピース型矯正は保険適用外となることが多いです。
医療費控除も重要な情報です。矯正治療と手術費用は医療費控除の対象になるため、領収書の保管が重要です。所得税の計算時に10万円を超える医療費は控除対象になり、患者さんの実質負担がさらに軽減される可能性があります。
歯科医が最も見落としやすい点は、「手術が必要と思い込んでいる症例の中に、実は矯正治療のみで改善できるケースが含まれている」という事実です。この誤診は患者さんに不要な身体的・心理的負担を与えます。
軽度から中等度の歯性下顎前突であれば、矯正治療のみで改善可能です。治療期間は2~3年程度で、MEAW矯正(マルチループ)などの特殊な矯正技術を用いることで、手術を回避できるケースもあります。実際に、他院で手術の適応と診断されていた患者さんが、当院の矯正治療のみで受け口を改善した事例も報告されています。
判定には精密検査が不可欠です。セファログラムで顎骨の位置関係を数値化し、前後的なズレの大きさを正確に測定する必要があります。特に、ANB角(上下顎の骨格的な位置関係を示す角度)が小さい場合は、矯正治療のみで対応できる可能性が高くなります。逆にANB角が大きく(15度以上)、かみ合わせの異常が著しい場合は、手術の適応が高くなります。
患者さんへの説明時には、「治療法の選択肢が複数ある場合がある」ことを伝えることが重要です。矯正治療のみ、外科矯正治療、カモフラージュ治療(骨格のズレを歯の位置調整で見た目的に補正する方法)など、複数の選択肢を提示することで、患者さんの納得度と治療のアドヒアランスが向上します。
術前矯正開始前に、手術を避けられる可能性を徹底的に検討すべきです。下顎前突の治療は難易度が高く、治療期間も長期になるため、患者さんの人生に大きな影響を与えます。だからこそ、最も患者さんにとって負担が少ない治療方法を提案することが、歯科医としての倫理的責任といえるでしょう。
<参考:顎変形症の診断基準と外科矯正治療が必要な判定指標について、日本矯正歯科学会および日本口腔外科学会の基準に基づいています。>
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