針刺しをしたら、まず傷口から血を絞り出すのは逆効果です。
針刺し事故が起きた瞬間、多くの医療従事者が真っ先にやりがちなのが「傷口を絞って血を出す」行為です。ところが、国立国際医療研究センター エイズ治療・研究開発センター(ACC)の最新ガイドラインは、この行為を明確に否定しています。「受傷部位から血液を絞り出そうとする試みは、有効性が証明されておらず、PEP開始までの貴重な時間を失うことになる」と記載されているのです。
正しい初動はシンプルです。やることは一つ、大量の流水と石けんで十分に洗い流すことが基本です。
具体的な手順を整理すると、以下のとおりです。
一連の流れのなかで最も重要なのは、「洗浄→報告→採血」の順序を崩さず、可能な限り迅速に動くことです。特に HIV 陽性が疑われるケースでは、その後の予防内服の開始タイミングが感染成否を左右します。
参考:国立国際医療研究センター エイズ治療・研究開発センター「血液・体液曝露事故(針刺し事故)発生時の対応」
https://www.acc.jihs.go.jp/medics/infectionControl/pep.html
針刺し事故は「とりあえず消毒して報告すればいい」と思われがちですが、感染する病原体によって対応手順がまったく異なります。これは正確に知っておく必要があります。
まず感染率の基本的な数字から押さえましょう。抗体なしの状態でHBV(B型肝炎ウイルス)陽性血液に針刺しをした場合、感染確率は約30%にのぼります。HCV(C型肝炎ウイルス)は約3%、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)は約0.3%です。数字だけ見るとHIVは低く見えますが、感染した際の重大性は言うまでもありません。
| 病原体 | 感染率の目安 | 有効な予防策 | 対応タイムリミット |
|---|---|---|---|
| HBV(B型肝炎) | 約30%(HBe抗原陽性の場合) | HBIG+HBワクチン接種 | 24〜48時間以内 |
| HCV(C型肝炎) | 約1〜3% | 特異的予防策なし・経過観察 | —(経過観察が中心) |
| HIV | 約0.3% | 抗HIV薬PEP内服(28日間) | 1〜2時間以内(72時間が上限) |
HBVへの対応で重要なのは「48時間以内」というタイムリミットです。受傷者のHBs抗体が陰性だった場合、乾燥抗HBsヒト免疫グロブリン(HBIG)1,000単位を筋肉注射し、HBワクチンの初回接種を行います。HBIG+ワクチンの迅速な投与でHBV感染を90%以上防げるとされています。
HCVに関しては、現時点で有効な予防薬がありません。経過観察が中心となります。ただし、労災保険が医療従事者に認められており(平成6年5月1日付)、HCVへの感染が業務上と認められた場合はインターフェロン投与が給付対象になります。
HIVはスピードが命です。予防措置は原則として必要ありません。ただ、HIVについては対応が一番速さを要すると覚えておけばOKです。
参考:厚生労働省「スタッフの検査・予防と感染事故時の対応」
https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/dl/jinshikkan_a_0016.pdf
HIV陽性血液への針刺し事故の後、多くの人が「まず採血結果を確認してから動こう」と考えます。しかしこれは危険な判断です。
北海道大学病院の感染対策マニュアルには明確にこう記されています。「感染性の高い血液に曝露後、1〜2時間以内に抗HIV薬を服用することで、通常約0.3%の感染率をさらに80%下げることができる」。つまり、迷っている間に時計は動いています。採血結果を待つ必要はありません。
PEP(曝露後予防内服/Post-Exposure Prophylaxis)は以下のルールで行います。
「責任者に連絡が取れない」という状況もあり得ます。その場合でも、感染リスクが高いと自身で判断した場合は、PEPの初回内服を自己判断で開始してよいと国のガイドラインは定めています。内服を始めてから連絡を続ける努力を継続することが原則です。
PEP薬の費用については、平成22年9月の厚生労働省通知により、曝露後予防内服は労災保険の給付対象とされています。「あとで申請できる」ということです。金銭的な心配で内服をためらう必要はありません。
1999年以降、適切なPEP(多剤併用)が行われた米国のサーベイランスデータでは、職業的曝露によるHIV感染確定例はゼロ件が報告されています。これは使えそうな数字ですね。正しい手順で動けば、感染リスクはほぼゼロにできるのです。
参考:国立国際医療研究センター エイズ治療・研究開発センター「曝露後予防内服(PEP)推奨レジメン」
https://www.acc.jihs.go.jp/medics/infectionControl/pep.html
針刺し事故が起きたとき、「大したことないから報告しなくていいか」と思ってしまう医療従事者は少なくありません。しかし、この判断が後に大きなデメリットになります。
職業感染制御研究会の調査(2009年)によると、日本では年間約10万件の針刺し切創が発生していると推計されています。ただし、これは報告ベースの数字であり、未報告件数を含めると45万〜60万件に上るという報告もあります。つまり、報告されているのは発生件数の一部にすぎません。
未報告のままにしておくと、次のようなリスクがあります。
報告が必要な手順は原則として以下の通りです。
「報告すると怒られそう」「面倒」という心理的ハードルを感じる場面もあるかもしれません。しかし事故者のプライバシー保護は感染対策マニュアルに明記されており、多くの施設で配慮が義務付けられています。報告自体が自分を守る行動だということですね。
参考:職業感染制御研究会「エピネット日本版サーベイランス」
ここまで「事故が起きた後の対応」を中心に解説してきました。ただ、現場を長く経験している感染管理認定看護師や院内感染対策(ICT)のスタッフに聞くと、「フローチャートを実際に使いこなせる職員は、事故が起きていない平時からその流れをイメージ訓練している」という共通点があると言います。
実際の統計では、器具の片付け中(25.2%)・リキャップ時(12.6%)・抜針時(9.9%)という場面での針刺し事故が多いことが分かっています(ある病院のEPINet集計より)。そして、事故が集中する時間帯は午前8〜12時の業務ピーク時です。つまり、焦りと疲れが重なったときに起きやすいのです。
フローチャートを「緊急時の手引き」だけで終わらせず、予防と一体で運用するために、現場でできる取り組みを紹介します。
フローチャートは「使えるときに初めて意味を持つ」ツールです。日常的にイメージを持っておくことが、いざというときの迅速な対応を確実にします。厳しいところですね。
また、各施設の感染対策マニュアルやフローチャートは定期的に更新されます。2025年以降、PEP推奨レジメンの変更(テビケイ/ビクタルビへの対応追加)など、実際に内容が更新された例もあります。最低でも年1回、自施設のマニュアルを確認する習慣をつけることが、知識の鮮度を保つ条件です。
参考:北海道大学病院感染対策マニュアル第7版「針刺し・切創及び皮膚・粘膜曝露時の対応(2025年5月改訂)」
https://www2.huhp.hokudai.ac.jp/~ict-w/manual(ver.7)page/manual(ver.7)/14.02)ingai-harisashitaiou20250507.pdf