副神経の損傷で、肩が上がらなくなり患者のQOLが著しく低下します。
歯科情報
副神経(Accessory Nerve、第XI脳神経)が運動支配する筋は、胸鎖乳突筋(Sternocleidomastoid Muscle)と僧帽筋(Trapezius Muscle)の2つに絞られます。これは歯科国家試験においても繰り返し問われる基本知識ですが、2筋の機能と起始・停止まで正確に押さえている人は意外と少ないものです。
胸鎖乳突筋は、その名の通り胸骨・鎖骨を起始とし、乳様突起(側頭骨)に停止する筋です。主な作用は「対側への頸部回旋」と「頸部屈曲」で、左の胸鎖乳突筋が収縮すれば顔は右を向きます。また、呼吸補助筋としても重要な役割を果たします。つまり左右どちらかが麻痺すると頭部の回旋運動が著しく制限されます。
一方、僧帽筋は外後頭隆起から項靭帯・第12胸椎にかけて起始し、鎖骨外側1/3・肩峰・肩甲棘に停止する広い筋肉です。機能は肩甲骨の挙上・内転で、上腕の外転・挙上を補助します。ちょうどA4用紙をひし形状に広げたくらいの面積(40〜50cm四方)をカバーする筋肉と考えるとイメージしやすいでしょう。
| 筋名 | 起始 | 停止 | 主な作用 |
|---|---|---|---|
| 胸鎖乳突筋 | 胸骨・鎖骨 | 乳様突起(側頭骨) | 対側頸部回旋・頸部屈曲 |
| 僧帽筋 | 外後頭隆起〜第12胸椎 | 鎖骨外側1/3・肩峰・肩甲棘 | 肩甲骨挙上・内転・上腕挙上補助 |
胸鎖乳突筋と僧帽筋はどちらも副神経の支配を受けますが、支配の詳細には差があります。胸鎖乳突筋では副神経が主要な運動成分を担い、僧帽筋では副神経に加えて頸神経叢(C2〜C4)からも支配を受ける二重神経支配となっています。二重神経支配が基本です。
歯科国試(第114回B17)では「筋鉤で牽引している筋を支配する神経は?」という問いで副神経が正解になるなど、臨床解剖との接続で問われるケースが増えています。これは使えそうです。
歯科医師国家試験 第114回B17問題|副神経と胸鎖乳突筋の出題例(歯科国試過去問サイト)
副神経の走行は、脳神経の中でも特に複雑で独特です。「脊髄から出た神経がいったん頭蓋内に入ってから再び頭蓋外へ出る」という経路をたどります。意外ですね。
副神経は大きく延髄根(内枝)と脊髄根(外枝)の2成分に分けられます。延髄根は疑核(nucleus ambiguus)を起源とし、迷走神経とともに走行して咽頭・喉頭の筋を支配します。これは迷走神経の「副(accessory)」として加わる成分です。
歯科臨床で特に重要なのは脊髄根(外枝)です。頸髄C1〜C5(一部C6)の外側面から発出した根線維が1本の神経幹として集まり、脊柱管を上行して大後頭孔から頭蓋腔内に入ります。その後、延髄根と合流して頸静脈孔(舌咽神経・迷走神経とともに通過)を経て頭蓋外へ出ます。
頸静脈孔を通過するのは舌咽神経(IX)・迷走神経(X)・副神経(XI)の3神経で、この孔が障害されると「頸静脈孔症候群」として嗄声・嚥下障害・肩の下垂が同時に起こります。歯科国試(第118回A-47)でも「頸静脈孔を通過する神経の損傷によって生じる症状」として嗄声・嚥下障害が正解になっており、この3神経セットは必須の暗記事項です。
「脊髄から出た神経が頭蓋内を逆行して再出頭蓋する」という走行は他の脳神経にはない特徴で、副神経を脊髄神経と混同しやすい原因にもなっています。副神経は脳神経(第XI番)が原則です。
Terminologia Anatomicaに基づく解剖学|副神経脊髄根の走行詳細(解剖学参考サイト)
副神経が損傷されると、その支配筋である胸鎖乳突筋と僧帽筋に麻痺を生じます。麻痺の程度・範囲は損傷部位によって異なりますが、最も問題となるのは僧帽筋麻痺による肩・上肢機能の低下です。
僧帽筋麻痺では、安静時に肩甲骨が下垂して外側に偏移(外転)する「翼状肩甲(Winged Scapula)」が出現します。翼のように肩甲骨が浮き上がって見えるため、この名がつきました。動作時には肩関節の外転・挙上が90度以上できなくなるという重大な機能制限が生じます。腕を肩より上に上げられなくなるイメージです。
副神経麻痺23症例を検討した文献(Can. J. Neurol. Sci. 1991年)によれば、麻痺の分布は僧帽筋単独麻痺が6例、僧帽筋+胸鎖乳突筋合併麻痺が5例で、僧帽筋が主要な障害筋となっていました。
歯科口腔外科領域では、口腔がんや頸部腫瘍に対して頸部郭清術(ネックディセクション)が行われることがあり、その際に副神経が切除・損傷されると上記の後遺症が残ります。患者が術後に「肩が上がらない」「腕が疲れやすい」と訴えた場合は副神経障害を疑う必要があります。副神経障害への早期対応が大切です。
術後のリハビリテーションでは、たとえ副神経を温存した場合でも一定期間麻痺状態が続くことが知られており、早期からの理学療法(関節可動域訓練・筋力強化)が患者のQOL維持に直結します。
神戸大学病院|頸部リンパ節郭清術後の患者さんに対するリハビリテーション(副神経温存・切除後の対応)
副神経が後頸三角(胸鎖乳突筋後縁から僧帽筋前縁にかけての領域)を表層に近い位置で走行するという解剖学的事実は、頸部外科における最大のリスクポイントです。
頸部郭清術は、口腔がん・咽頭がん・甲状腺がんなどの頭頸部悪性腫瘍に対して行われる術式です。根治的頸部郭清術(Radical Neck Dissection)では内頸静脈・副神経・胸鎖乳突筋がすべて一塊で切除されますが、現代では機能温存を目的とした機能的頸部郭清術(Functional Neck Dissection)が主流となっており、副神経の温存が強く推奨されています。
副神経が特に損傷を受けやすい場面は次のとおりです。
東京歯科大学の報告(機能的頸部郭清術施行時に副神経が内頸静脈を貫通した症例)では、「副神経は、僧帽筋や胸鎖乳突筋を支配する運動神経であり、同神経の損傷は術後の腕挙上障害ならびに安静時における肩の下垂として現れる。したがって副神経の温存は機能的郭清術の基本である」と明記されています。副神経温存は術式の基本です。
また、医原性副神経損傷の研究(日本赤十字社)によれば、「後頸三角リンパ節生検時などにしばしば医原性副神経損傷をきたすが、手術療法で良好な成績が得られる」と報告されており、損傷後の外科的修復も選択肢に挙がります。副神経損傷には期限があります——早期発見・早期手術が回復率を高めるため、疑わしい症状があれば速やかに神経専門医へのコンサルトを検討することが重要です。
東京歯科大学学術機関リポジトリ|機能的頸部郭清術施行時の副神経と内頸静脈の解剖学的変異の報告
歯科や口腔外科の外来で患者を診る際、副神経支配筋の状態を観察することは、実は全身管理や安全な治療介入のために役立つ視点です。この観点は一般的な参考書にはあまり記載されていません。
まず、治療椅子(デンタルチェア)に仰臥位をとった患者の頸部姿勢を見るだけで、胸鎖乳突筋の緊張・萎縮・左右差を概観できます。胸鎖乳突筋の著しい緊張は頸部交感神経幹を刺激し、自律神経の乱れ(心拍数上昇・呼吸の浅さ・不安感)と関連するとも報告されています。チェアに深く沈みづらそうな患者は要注意です。
次に、局所麻酔後に患者へ「肩を上げてみてください」と一言声をかけるだけで、術前の簡易な筋機能スクリーニングになります。両側で対称的に動くかを確認し、左右差や挙上制限があれば神経学的背景を意識した問診に移ることができます。これだけで大丈夫です——疑わしければ主治医・神経内科へ紹介する判断の根拠になります。
また、筋強直性ジストロフィー(MyD)の患者では胸鎖乳突筋が早期から萎縮・菲薄化するという特徴があります。歯科的には口腔内の筋緊張異常や嚥下障害として先に気づくケースもあり、副神経支配筋の状態を横断的に把握していると全身疾患の早期発見に貢献できます。これも使えそうです。
さらに、頸部手術歴のある患者(甲状腺手術・リンパ節生検など)の初診時には、「以前の手術後から肩が重くなりましたか?」という1つの問いが有用です。肩の下垂や腕の挙上障害は術後年単位で継続することがあり、患者自身が副神経損傷と気づいていないケースも少なくありません。
副神経支配筋の知識を歯科臨床のルーティンに組み込むことで、患者への一歩踏み込んだケアが実現します。結論は「観察・問診の習慣化」です。