研磨済みの金属表面をAD-5635で測ると、実際より100℃以上低く表示されます。
AD-5635は、エー・アンド・デイ(A&D)が製造・販売する非接触型の赤外線放射温度計です。測定範囲は−50℃〜+1000℃と幅広く、鉄鋼・アルミ・銅合金など多様な金属素材の温度管理に対応できます。
本体はコンパクトなピストル型で、片手で持ちながらトリガーを引くだけで瞬時に温度を読み取れます。これは現場での作業効率に直結します。測定時間は約0.5秒と高速で、熱処理炉の出口やプレス機のダイス温度チェックなど、流れ作業の中での計測にも十分対応できる速度です。
表示部はバックライト付き大型LCDを採用しており、暗い工場内でも視認性が確保されています。また、データホールド機能により、測定値を画面に固定したまま手元で記録することが可能です。測定結果をすぐメモに取れるのは実務上の大きな利点です。
本機の測定精度は±2℃または測定値の±2%(いずれか大きい方)と規定されています。この精度は、焼き入れや焼き戻しの熱処理工程で求められる±5〜10℃の管理幅を十分にカバーするレベルです。つまり熱処理管理用途として、AD-5635は実用的な選択肢です。
放射率(Emissivity)とは、物体が赤外線を放射する効率を示す係数で、0〜1.00の無次元数で表されます。AD-5635はこの放射率を0.10〜1.00の範囲で0.01刻みに設定できます。
放射率の誤設定は、測定精度に致命的な影響を及ぼします。例えば、鏡面研磨されたステンレス(放射率:約0.10〜0.15)に対してデフォルトの0.95を使用すると、実際の温度が500℃であっても、表示値は350℃前後と100℃以上の誤差が出ることがあります。この誤差は製品不良や設備の過熱事故につながりかねません。
以下は金属素材別の放射率の目安です。現場での設定の参考にしてください。
| 金属素材・表面状態 | 放射率の目安 |
|---|---|
| 鉄(酸化皮膜あり・黒皮) | 0.70〜0.90 |
| 鉄(磨き面・光沢) | 0.14〜0.16 |
| ステンレス(酸化・加熱後) | 0.50〜0.80 |
| ステンレス(鏡面研磨) | 0.10〜0.15 |
| アルミニウム(陽極酸化処理) | 0.80〜0.90 |
| アルミニウム(未処理・光沢) | 0.04〜0.09 |
| 銅(酸化あり) | 0.60〜0.80 |
| 銅(磨き面) | 0.03〜0.07 |
放射率が低い金属(研磨したアルミや銅)は、非接触温度計での計測が特に難しい部類です。そのような場合は、測定箇所にマスキングテープや専用の高放射率塗料を一時的に貼付・塗布し、そちらの放射率(通常0.95前後)で測定する方法が現場では広く使われています。この手法は実測値との誤差を大幅に減らせます。
参考として、放射率の詳細なデータはA&D社の公式製品ページや計測器メーカーの技術資料に掲載されています。
A&D(エー・アンド・デイ)公式サイト:製品仕様・技術資料の確認に
D:S比(距離対スポット比)とは、測定距離(D)と測定スポット径(S)の比率のことです。AD-5635のD:S比は12:1です。これは、測定対象から120cm離れた位置で計測すると、直径10cmの円形スポットの平均温度を測定しているという意味です。はがきの横幅(約10cm)と同じ直径の円、とイメージするとわかりやすいです。
距離が遠くなればなるほどスポット径が広がります。例えば、熱処理炉から240cm離れると、測定スポットは直径20cmになります。この状態で溶接部位や狭い箇所の温度を計測しようとすると、周囲の低温部分も測定範囲に入り込み、実際より大幅に低い数値が表示されます。
金属加工現場でよくあるミスは、「遠くからでも測れるから」と安易に距離を広げてしまうことです。正確な測定のためには、測定対象の直径がスポット径より大きくなる距離を守ることが絶対条件です。測定対象が直径5cmの熱処理部品であれば、60cm以内で計測する必要があります。
また、AD-5635にはレーザーポインターが搭載されており、スポット中心位置を視覚的に確認できます。これを活用し、測定箇所がスポット内に収まっているかを常に確認する習慣が重要です。これが基本です。
測定対象が小さく、近距離での計測が難しい場合は、D:S比がより大きい(例:50:1以上)上位機種の検討も選択肢に入ります。ただし、AD-5635の12:1は金属加工の多くの一般的な用途において十分な性能です。
ISO 9001やIATF 16949(自動車産業向け品質マネジメント)などの認証を取得・維持している金属加工工場では、使用する計測機器に対して定期的な校正(キャリブレーション)が義務づけられています。AD-5635もこの対象となります。
校正とは、計測器の表示値を基準値と比較し、誤差を確認・記録する作業のことです。校正記録がない計測器で取得したデータは、品質記録として無効とみなされるリスクがあります。これは見落としがちな落とし穴です。
A&D社では有償の校正サービスを提供しており、国家計量標準にトレーサブルな校正証明書の発行が可能です。校正周期の目安は一般的に1年に1回とされていますが、使用頻度や環境(粉塵・振動・温度変化が大きい現場)によっては半年ごとの校正を推奨するケースもあります。
校正コストは機種・依頼先によって異なりますが、AD-5635クラスの放射温度計で1回あたり概ね8,000〜15,000円程度が相場です(2025年時点の参考値)。年間コストとして予算に組み込んでおくことが、品質管理上の安全策です。
また、日常的なセルフチェックとして、既知温度の参照体(例:沸騰した純水=100℃、または専用の黒体炉)を使って計測値を確認する方法があります。精密さは校正に劣りますが、異常値の早期発見には有効です。校正管理と日常チェックの組み合わせが原則です。
産業技術総合研究所 計量標準総合センター(NMIJ):計量トレーサビリティの概念と国家標準の確認に
AD-5635のような非接触式温度計には、接触式(熱電対・測温抵抗体)にはない強みと弱みがあります。正しく使い分けることで、計測精度と作業効率の両立が実現します。
非接触式の最大の利点は、回転体・高温部・塗装済み製品など「触れてはいけない対象」でも瞬時に計測できることです。例えば、旋盤加工中の回転するワークや、溶接直後の800℃超の母材なども安全に計測できます。これは使えます。
一方、接触式の強みは、光沢金属面・透明体・狭い隙間など、非接触式が苦手とする環境での高精度計測です。鏡面仕上げのアルミ筐体の内部温度や、金型の深い穴の底面温度を測る場合は、K型熱電対などの接触式が信頼性で勝ります。
現場での使い分けの目安は以下の通りです。
| 用途・状況 | 推奨計測方式 |
|---|---|
| 熱処理炉出口・鍛造品の表面温度 | 非接触式(AD-5635) |
| 回転中のシャフト・ロールの温度 | 非接触式(AD-5635) |
| 鏡面研磨済みのステンレス板 | 接触式(熱電対) |
| 金型内部の狭い孔の温度 | 接触式(細径熱電対) |
| プレス金型の広い面全体の温度ムラ確認 | 非接触式(AD-5635) |
| ISO記録用の高精度な数値取得 | 接触式(測温抵抗体) |
AD-5635は「迅速な表面温度の確認と異常検知」に優れ、接触式は「精密な数値記録と狭所計測」に強みを持ちます。2種類を場面に応じて使い分ける体制が、金属加工現場の温度管理品質を高めます。
また、AD-5635には最高値保持(MAX表示)機能もあり、断続的に変化する温度の最大値を自動記録できます。プレスやダイカストの1サイクル中の温度ピークを捉えたい場合に特に有用な機能です。接触式では難しいこうした用途でも、AD-5635は実力を発揮します。
日本計量振興協会:計測機器の選定・管理に関する技術資料の参照に